ドラマー(バンド)のアルバイトに熱中している間に、「俳優養成所」の同期や後輩が次々と飛躍を遂げ、すっかり目立たない存在となると、俳優への情熱も醒め始めていたという、愛川欽也(あいかわ きんや)さんは、その後、本屋を営んだといいます。
「愛川欽也が若い頃は(バンド)ドラマーのバイトに夢中になっていた!」からの続き
俳優をあきらめ本屋になる
俳優になる夢を半ばあきらめかけていた愛川さんは、昔から本が好きだったこともあり、本屋をやることを思いついたそうで、本屋の息子である友達に、その旨を相談したところ、本を仕入れるには資本がいることを知り、あきらめようとしたそうですが、
その友達のお父さんから、「うちの支店になればいい」と、仕入れは友達のお父さんの店でしてもらって愛川さんの店に回してもらい、(本の小売店は二割儲かるということで)一割は友達のお父さんの店、一割は愛川さんの儲けということで話がまとまったのだそうです。
発禁本が高値で売れるも・・・
こうして、本屋をやることになった愛川さんは、ある日のこと、ルイ・マローの「エミリー夫人の寝室」という本を(売れるとみて)50冊仕入れると、ほどなくして、この本がわいせつ本として発売禁止になったことから、値段が上がり、知り合いにこのことを話すと高値で買ってくれたそうで、
(売ってはいけない本だったため、かなりの儲けになったそうです)
この成功に味をしめた愛川さんは、発売禁止になる可能性の高い本を探し、今度は、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」という本を、友達のお父さんの反対を押し切って、押し入れがいっぱいになるくらいの部数を仕入れ、それからというもの、毎日、新聞を見るのを楽しみにしていたそうですが・・・
1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、1ヶ月が経っても、「北回帰線」が発売禁止になったという記事は新聞には載らず、愛川さんの勘は大きくはずれたそうで、そのうえ、巣鴨の横丁にある小さな本屋では、ヘンリー・ミラーのような小説は1冊も売れなかったそうで、
愛川さんは、友達のお父さんに頭を下げ、今までの儲けをはたいて本を引き取ってもらい、本屋を閉店したのだそうです。
中学時代の同級生にキャバレーでバンドをやらないかと誘われる
そうこうしているうち、3年間通った「俳優養成所」を卒業した愛川さんですが、相変わらず、俳優としての仕事はなく、焦りと苛立ちの日々を送っていたそうですが、
(この頃は、日本映画界が活発に動き出した時代だったため、「面通し」と呼ばれる、映画監督たちによる面接が頻繁に行われたそうですが、愛川さんは落ちてばかりだったそうです)
そんな中、喫茶店で、埼玉県大宮の中学時代の同級生(鈴木さん)に声をかけられ、今はどこの店でドラムを叩いているのかと聞かれたそうで、
(鈴木さんは、愛川さんが新橋のキャバレーでドラムを叩いている時に、2~3度、客として来てくれたことがあったそうです)
愛川さんが、もうドラムは叩いていないと答えると、
鈴木さんには、
そうか残念だな。俺はね、今、大宮と川口で小さなキャバレーやってるんだけど、やっぱり東京並にバンドでも入れないと客も喜ばないんだよ。おまえ良かったら金払うからバンドを組んで俺の店でやらないか
と、言われたのだそうです。
「愛川欽也はバンドのマネージャーで儲けるもやがてクビになっていた!」に続く