高校3年生の時、夏の甲子園大会に出場すると、1試合25奪三振、大会通算83奪三振という、不滅の記録を打ち立て、一躍、脚光を浴びた、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、高校卒業後はプロ野球の「中日ドラゴンズ」に入団するのですが、実は、板東さんにとって本意ではなかったといいます。
奪三振記録に特別な思い入れはなかった
1958年、高校3年生の夏の甲子園で、1試合25奪三振、大会通算83奪三振という、驚異的な記録を打ち立てた板東さんは、一躍、脚光を浴び、マスコミが宿舎に殺到するほどの人気者となったそうですが、
後に、板東さんは、
再試合と準決勝は勝ったけど、決勝はもう肩が限界で、柳井高校に7対0で負けました。奪三振の記録は、人が言ってくれるほど特別な思い入れはありません。
なんせ1試合で15以上の三振を取らないとコーチにどつかれるから、本能的に投げてただけなんですよ。
と、語っており、
実は、マスコミが宿舎に押し寄せていた時も、怖くてトイレに隠れていたのだそうです。
家庭の事情で中日ドラゴンズに入団していた
また、もともと、板東さんは、小学校の先生になりたいと思っており、どれだけ三振記録を作っても、野球を職業にしようとは思っていなかったそうで、
実際、1958年秋には、慶應義塾大学のセレクションに合格し、大学に進学できると喜んでいたそうですが・・・
結局は「中日ドラゴンズ」に入団。
というのも、甲子園の活躍で、2000万円(現在の貨幣価値に換算すると数億円)にまで跳ね上がっていた契約金に目がくらんだお父さんが、プロ入りの話を勝手に進めてしまったそうで、
(お母さんは、「嫌やったら逃げてもええよ」と言ってくれたそうですが)
板東さんは、貧しい家計を支えるため、プロ入りする決意をしたのだそうです。
(宝くじの特賞が100万円という時代だったため、板東さんの契約金2000万円がいかにすごいものだったかが伺えます)
ちなみに、板東さんは、11球団からスカウトを受ける人気ぶりだったそうですが、当時、中日ドラゴンズのスカウトだった柴田崎雄氏によると、
板東さんのお母さんから、
(1945年8月初め、板東一家が暮らしていたソ満国境の町に、ソ連兵が侵略してきた時)4人の子供を連れて逃げました。あの子は泣きながら鉄道線路を歩いて来ました
と、板東さん一家が満洲から引き揚げて来た話を聞き、即、板東さんを獲ると決めたとのことでした。
中日ドラゴンズ時代
こうして、板東さんは、1959年、「中日ドラゴンズ」に入団すると、ルーキーでありながら、いきなり一軍で起用され、先発やリリーフなどで登板して4勝4敗の成績を残すと、
翌年(入団2年目)の1960年には10勝を挙げ、3年目の1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢され(現在も中日の開幕投手の最年少記録)、12勝という2年連続二桁勝利を記録するのですが、
その後は、高校時代からの故障の影響で、4年目は2勝、5年目は3勝と、成績は下降。
それでも、1964年には、リリーフ専門投手として復活すると、再び頭角を現し、チーム最多の53試合で登板し、1965年には、リリーフながら12勝、1966年には13勝、1967年には、自己最高の14勝を挙げて、3年連続二桁勝利を記録するほか、1966年と1967年には2年連続でオールスターゲームに出場するなど、活躍したのでした。
「板東英二はプロ野球引退後は解説者として人気を博していた!」に続く
中日ドラゴンズ時代の板東さん。