交際当初はダブル不倫状態だった、オノ・ヨーコさんとジョン・レノンさんですが、1968年にジョンさんの離婚が成立し、1969年にオノさんの離婚が成立すると、晴れて結婚。そして、当時、ベトナム戦争真っ只中で、世界中でベトナム戦争に反対する声が高まりつつあった時期だったことから、そのハネムーンを利用して、「ベッドイン」という平和のための運動をします。

「オノ・ヨーコとジョンレノンはダブル不倫だった!」からの続き

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当初は結婚できる国がなかった

交際当初はダブル不倫状態も、お互いの離婚が成立した、オノ・ヨーコさんとジョン・レノンさんは、1969年3月14日、イギリスのドーセット州ポールに向かう途中、サウザンプトンを経由して、「クロス・チャンネル・フェリー」で結婚が出来るかを調べたそうですが、オノさんがイギリス人ではなくビザがないため、乗船できないと言われたそうです。

そこで、今度はパリで結婚しようと、3月16日には、飛行機をチャーターしてパリへ向かったそうですが、ここでも、当局からは、二人が充分な期間フランスに住んでいないという理由で、結婚を受理することを拒否されてしまったそうです。

ジブラルタルで結婚式を挙げる

そんな中、ジョンさんが、(ビートルズのレコードレーベル「Apple」で働いていた)ピーター・ブラウンさんに電話をし、どこなら結婚ができるか尋ねたところ、「ジブラルタルが唯一可能な場所です」と教えてくれたそうで、数日後には、別の飛行機をチャーターし、ジブラルタルへ。

すると、1969年3月20日には、無事、結婚することができたそうで、後にジョンさんは、その時のことについて、

(Appleで働いていた)ピーター・ブラウンに電話をしたんだ。「僕達結婚したいんだけど、どこでなら出来る?」って。そうしたら、彼は「ジブラルタルが唯一可能な場所です」と電話を折り返してくれて、だから、「OK、じゃあ、そこにいこう!」って実際に行ったんだ。

とても美しいところだった。そこはヘラクレスの柱と呼ばれていて、また象徴的に、世界の果てとも呼ばれていた。ヘラクレスの柱以外にもいくつかの呼名もあったけど、そこから外の世界は謎に満ちていると思われていたんだろう、だから世界の玄関のようなものだったよ。

僕らはそのシンボリックなセンスが気に入って、自分達の関係の強固な礎のようだと思ったんだよ

と、語っています。


ジブラルタルで結婚式を挙げるオノさんとジョン・レノンさん。

(この結婚式の30年後には、この世界で最も有名なヘラクレスの柱で執り行われたオノさんとジョンさんの結婚30周年を記念して、ジブラルタルが切手を発行しています)

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「ベッド・イン」(平和のためのパフォーマンス)

ところで、二人が結婚したのは、ベトナム戦争真っ只中で、世界中でベトナム戦争に反対する声が高まりつつあった時期だったのですが、

オノさんとジョンさんは、ハネムーンがマスコミに大々的に取り上げられるならば、これを、平和をアピールする機会にしようと思いついたそうで、

ジブラルタルでの結婚式後は、パリの「ホテル・プラザ・アテネ」に移り、1969年3月25日には、車でアムステルダムの「ヒルトンホテル(702号室(現在は902号室))」に移ると、

1969年3月26日から31日までの間、毎日午前9時から午後9時まで、世界中の報道陣を招き入れて平和について語り合うという、”ベッド・イン”というパフォーマンスをし、

3月31日には、オーストリア・ウィーンに向けて出発し、今度は”バギズム”と呼ばれる、白い袋に入ったまま、記者会見を行い、5月26日から6月2日には、はカナダのモントリオールで2回目の”ベッド・イン”を行うと、

(この時、ジョンさんは、初のソロ・シングル「平和を我等に」(「プラスティック・オノ・バンド」名義)をレコーディングしています)

同年12月には、「War Is Over! (If You Want it) 」(戦争は終わる!もしあなた(たち)がそれを望めば)というメッセージを、新聞各紙や街頭の看板、ポスターなどに広告するキャンペーンを行い、「愛と平和」(Love and Peace)の活動を展開したのでした。

「オノ・ヨーコはジョンレノンにとって母親的存在だった!」に続く


「ベッド・イン」時のジョン・レノンさんとオノさん。

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