裕福な家庭で、一流の食べ物や洋服を与えられ、何不自由なく育ったという、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さんは、中学2年生の時にはブラスバンド部に入部してトランペットを始めると、トランペットで作曲もするようになったそうで、やがては、「ビートルズ」のような歌が作りたいと、エレキギターを始め、作曲家を志すようになったといいます。
少年時代はエルヴィス・プレスリーの大ファンだった
宇崎さんは、小学3年生くらいの頃、洋楽が好きだったお兄さんやお姉さんの影響を受け、FENで洋楽(アメリカンポップスやロックンロール)を聴くようになったそうで、特にエルヴィス・プレスリーの大ファンだったそうです。
(FENとは、米軍基地関係者とその家族に向けた英語のラジオ放送のことで、現在はAFN Tokyoに改称されています)
また、同じ頃、両親が毎週映画館に連れて行ってくれるようになり、映画館の暗闇で聴く音楽が心に響き、いつも心をときめかせながら聴いていたそうで、この2つの経験から、音楽の好きな子供に育ったそうです。
(戦後の復興期にもかかわらず、裕福な家庭で何不自由なく育った宇崎さんは、恵まれているという意識はなく、ただ、自分だけが学校や近所の友だちから浮いていると感じ、みんなと同じようになりたかったそうですが、やはり、なれないことはどこかで感じていたそうで、エルヴィス・プレスリーの音楽は、そんな気持ちを癒やしてくれたのだそうです)
中学・高校時代はブラスバンド部でトランペット
そのうち、宇崎さんは、自分でも音楽をやりたくなったそうで、映画を観た帰りに、映画の音楽をスペリオパイプ(リコーダー)で吹くようになり、
(学校の教科書に載っている音楽は「学問」としか思えずつまらなかったそうです)
中学2年生の時にはブラスバンド部に入部し、トランペットを始めると、先輩にしごかれるうちに楽譜の読み書きができるようになり、高校でもブラスバンド部に入ると、高校1年生の頃にはトランペットで作曲までするようになったそうです。
ただ、中学3年生の時、お父さんの会社が倒産し、宇崎さん一家は豪邸から借家住まいになったそうで、その影響から、この頃の宇崎さんの将来の目標は、ちゃんと大学を卒業して、安定した職業に就くことだったそうです。
大学1年生の時にトランペットでクラブバンドのレギュラーメンバーに抜擢される
それでも、明治大学付属の中高一貫校に通っていた宇崎さんは、高校卒業後は、そのままエスカレーター式で明治大学に進学すると、入学と同時に、先輩に引きずられるように軽音楽部に入部したそうですが、
ある日のこと、先輩に言われるがままに、トランペットで「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド」をアドリブで吹くと、大絶賛されたそうで、早くも1年生でクラブバンドのレギュラーメンバーに大抜擢されると、あちこちのステージで演奏するようになったのだそうです。
大学在学中にはビートルズに憧れ350曲もの作曲をしていた
そんな中、大学2年生の時には、初めて「ビートルズ」の歌を聴くと、
「ビートルズ」のような歌が作りたい
と、思うようになったそうで、
アルバイトで貯めたお金でエレキギターを買い、独学でコードを覚えると、スリーコードにメロディーが乗せられることに気がついたそうで、
それからというもの、スリーコードを押さえては、1日1曲は歌を作ることをノルマにし、毎日のように歌をつくるようになったそうで、大学を卒業するまでの3年間で、350曲作り、大学4年生の秋には、作曲家になろうと決意したのだそうです。
(ただ、歌詞に関しては、自分で作るとどうしてもマンネリ化してしまうため、自分で作る以外にも、同級生やその家族など、誰かれかまわず、詞を書いてほしいと依頼していたそうで、その中には、後に妻となる阿木燿子さんもいたそうです)
「宇崎竜童が若い頃は音楽プロダクションで裏方として働いていた!」に続く