国立劇場のスターとして売り出すため、「曾我綉侠御所染」で「時鳥」役という大役に抜擢されると、養父の14代目守田勘弥さんには心配されたという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、見事、勘弥さんと息のピッタリ合った演技を見せ、芝居を成功に導きます。
「坂東玉三郎の「時鳥」役抜擢に14代目守田勘弥は心配でならなかった!」からの続き
「曾我綉侠御所染」の「時鳥」役がたちまち評判に
坂東さんが「曾我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」で「時鳥」役という大役に抜擢されると、養父の14代目守田勘弥さんは、嬉しい反面、心配で仕方がなかったといいますが、
いざ、1967年12月3日、国立劇場で「曾我綉侠御所染」の初日を迎えると、百合の方になぶり殺しにされる坂東さんの時鳥が初々しいと、たちまち評判になったそうで、
伊藤信夫さんの上司で制作室長の加賀山直三さんも、
玉三郎さんの時鳥は、あわれがあって、控え目で、行儀がいい。きっと よくなるよ
と、芝居全体の中でも時鳥殺しのくだりが一番良いと、嬉しそうに言ったそうです。
養父の14代目守田勘弥は涙を流して喜んでいた
また、伊藤さんが、終演後、14代目守田勘弥さんの楽屋を訪ねると、勘弥さんは裸になって化粧を落としている最中だったそうですが、伊藤さんの顔を見るなり、すぐに立ち上がって伊藤さんの手を握り、
ありがとう。 あんたの言う通り、息を合わせることに集中してよかった
と、涙を流したそうです。
実は、勘弥さんのおじいさんの12代目守田勘弥は、「江戸三座」のひとつ「守田座」の座元として、芝居興行に天才的手腕を発揮するなど、歌舞伎界最高位に君臨し、一時代を築いたのですが、
13代目が宗教にはまり、多額の借金を残して早くに他界したせいで、14代目だった勘弥さんは、守田勘弥家の当主でありながら、長く不遇の時代を過ごしたそうで、
決してその悔しさを表に出すことはなかったものの、このままでは終わりたくないとの思いがあり、(自分の先は長くはないかもしれないが)弟子で養子の坂東さんに無限の可能性を感じ、その才能が今まさに開花しようとしていることが、とても嬉しかったのでした。
片岡孝夫(後の15代目片岡仁左衛門)も坂東玉三郎の「時鳥」を観て感心していた
ちなみに、関西の歌舞伎役者・片岡孝夫(後の15代目片岡仁左衛門)さんも、この「曾我綉侠御所染」の公演を客席で観ていたそうで、
(20年後の1987年に坂東さんと片岡さんは「曾我綉侠御所染」で共演します)
片岡さんは、後に、この時の坂東さんについて、
すごい、と 思っていました
と語っています。
(片岡さんは、関西歌舞伎の名門・片岡仁左衛門家の御曹司だったのですが、この頃、関西の歌舞伎は興行として成り立たなくなって東京に出るも、松竹は、尾上菊之助さん、市川新之助さん、尾上辰之助さんの「三之助」ばかりを売り出していたため、片岡さんには良い役が回ってこず、不遇の時期を過ごしていたちょうどその頃でした)
「坂東玉三郎が若い頃は三島由紀夫の「椿説弓張月」で人気を博していた!」に続く