1967年12月3日、国立劇場で上演された「曾我綉侠御所染」で、なぶり殺しにされる時鳥役を初々しく演じて評判となった、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんは、その後、しばらくはヒットが出なかったものの、1969年11月に、作家・三島由紀夫さん作・演出の舞台「椿説弓張月」で白縫姫役に出演すると、たちまち人気を博します。
「坂東玉三郎は若い頃「曾我綉侠御所染」の「時鳥」役で評判になっていた!」からの続き
「曾我綉侠御所染」以降はヒットがなかった
1967年12月3日の「曾我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」で、見事に「時鳥」役を演じ、注目を集めた坂東さんは、
1968年1月には、「御摂勧進帳」(村雨姫役)
5月には、「裏表先代萩」(局松島役)
10月には、「天衣紛上野初花」(浪路役)
12月には、「漢人韓文手管始」(お稲役)
と、その後も、国立劇場に4ヶ月出演しているのですが、国立劇場の公演そのもの(通し上演、復活上演、新作など)は、劇評論家に認められても、観客動員にはなかなかつながらなかったそうです。
三島由紀夫作・演出の「椿説弓張月」の白縫姫役で人気を博す
そんな中、1969年3月、国立劇場で「南総里見八犬伝」の上演中(坂東さんは浜路役で出演)、
作家の三島由紀夫さんが伊藤信夫さんに、
玉三郎さんに役をつけているのはあなただと聞いたけど
と、その理由を尋ねてきたそうで、
伊藤さんが、
玉三郎さんを売り出したいんです。あの人は売れる役者になると思うんです
と、正直に答えると、
三島さんも、
玉三郎はいい役者になるよ。僕も応援しますよ
と、言ったそうで、
1969年11月には、坂東さんは、三島さん作・演出の舞台「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」で白縫姫役に起用されると、初々しいその演技で、たちまち人気を博します。
(三島さんは、作・演出のほか、衣装、装置、照明にいたるまで、舞台上のすべての権限を持っていたそうです)
三島由紀夫はもともとは中村歌右衛門のために歌舞伎の脚本を書いていた
実は、三島さんは、中村歌右衛門さんのために、初めて歌舞伎の脚本「地獄変」(1953年12月に歌舞伎座で上演)を執筆すると、以降、歌右衛門さんのために、「鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)」「熊野」「芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき)」「むすめごのみ帯取池」を書いていたのですが、
1958年3月以降は何も書いておらず、歌右衛門さんからも歌舞伎からも離れており、国立劇場ができた際には、非常勤理事となり、運営には関わったものの、自分で書く気はなかったそうです。
それが、ある年の忘年会で、同じ非常勤理事の作家・大佛次郎氏が、NHKの大河ドラマ「三姉妹」を芝居に書き直して、国立劇場で歌舞伎として上演したことに対し、三島さんが、「あれは歌舞伎とは言わんでしょう」と言い、言い合いになると、
大佛氏から「じゃあ、三島君、書いてみたまえよ」と言われ、再び、歌舞伎の脚本を書くことになったのだそうです。
三島由紀夫に贔屓にされる
また、作家の森茉莉さんは、当時の坂東さんと三島さんとの関係を、「潮」(1980年2月号)で、
三島由紀夫は玉三郎が贔屓(ひいき)だった。舞台というより彼は玉三郎自身を気に入っていたのだろう。或日 三島由紀夫が芝居を見に行って、玉三郎の部屋に寄らずに帰った。
玉三郎が電話で、どうして寄らなかったのかと聞くと、君の部屋へ行って、他の役者の部屋へ行かない訳にはいかない。今日は時間がなかったんだと答えた。
すると、玉三郎が「僕の部屋へ来る為に、他の人のところに行って下さってもいいでしょう?」と言ったという、この話はいい話だが、芸の方もよくてその上でこういう矜持(きょうじ)を持って貰いたいものである。
と、綴っており、
(この話は三島さん自身が周囲に話していたことだと言われています)
三島さんが再び歌舞伎に取り組もうという気になったのは、大佛氏とのやり取り以外にも、坂東さんの存在が少なからず影響していたと言われています。