片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)さんとの”孝・玉コンビ”で大ブレイクした、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、実は、その人気を一気に世間に広めたのは、写真家の篠山紀信さんだったといいます。
「坂東玉三郎は片岡孝夫(現15代片岡仁左衛門)と「孝・玉」コンビで大ブレイク!」からの続き
篠山紀信の写真でさらなる大ブレイクとなっていた
1971年、新橋演舞場での公演「花形歌舞伎」で、片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)さんと共演すると、”孝・玉コンビ”として、社会現象を巻き起こすほどのブームを巻き起こした坂東さんですが、
実は、そんな中、1970年に、写真家・篠山紀信さんと知り合うと、親交を深めており、
1971年には、篠山さんによる坂東さんの写真展「女形 玉三郎」が開催されると、1972年には、篠山さんによる写真集「女形 玉三郎」が発売され、このことがきっかけとなり、坂東さんは、さらなるブレイクを果たします。
(写真展ではポスターを貼った途端に盗まれるほどの人気ぶりだったそうです)
写真家・篠山紀信との出会い
そんな坂東さんと篠山さんの出会いですが、篠山さんによると、1969年11月に上演された、三島由紀夫さん作・演出の公演「椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)」で、初めて坂東さんの舞台を観ると、
それは今でもはっきり覚えているが、不思議な体験で、劇場の広い闇の中で玉三郎だけが妖しい発光体につつまれているように見えた
と、衝撃を受け、このことがきっかけとなり、1970年から二人の交流が始まったのだそうです。
(篠山さんは、歌舞伎ファンという訳ではなく、偶然、この公演を観たのだそうです)
篠山紀信は三島由紀夫から坂東玉三郎を撮るよう勧められていた
また、いつ頃かは不明ですが、篠山さんは、三島由紀夫さんから、「玉三郎を撮るべきだ」と勧められていたそうで、
(篠山さんは、1968年秋頃から三島さんを撮影し始め、1970年11月25日に三島さんが自決する直前まで、一緒に仕事をしていたそうです)
1970年7月、芸術専門誌から、歌舞伎特集を組むにあたって撮影依頼があり、この時初めて、国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」六段目のお軽役を演じている坂東さんを撮影したそうですが、
篠山さんは、この時のことを、
写真家としての魂を大いに揺すぶられた
長身で若く美しい姿に、不思議なオーラというか、妖艶な青い光が取り巻いているように見えたわけです。その瞬間、玉三郎を撮りたいと思いました
と、語っています。
ちなみに、坂東さんは、篠山さんとの出会いを、
初めて事務所でお会いしたとき、私は仕事の仕方も何も分からない19歳でした。大勢の人を呼んで、フリートーキングなどをしながら、仕事の方向を決めていく篠山さんのやり方に感心して、以後、私もその方法をとっています
と、オフィシャルサイトに掲載しています。
「坂東玉三郎と篠山紀信のコラボに養父の守田勘弥は当初反対していた!」に続く