東映からの映画「日本の黒幕」の監督オファーを快諾した、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、まずはストーリーが納得いかず、変更を提案すると、脚本担当の高田宏治さんにも東映にも受け入れられるのですが、実際、高田さんの脚本が上がってくると、気に入らず、高田さんの目の前で脚本を床に叩きつけたといいます。
「大島渚の幻の映画「日本の黒幕」に三上博史が売り込んでいた!」からの続き
高田宏治の脚本が伝えていたイメージと違っていた
東映映画「日本の黒幕」の監督オファーを引き受けるも、具体的な話を進める中、肝心のストーリーが気に入らず、別のストーリーを提案した大島さんは、
高田宏治さんの脚本の完成を待たずに(脚本が完成してから準備を始めたのでは間に合わなかったため)、先行してキャスティング、スタッフ編成、ロケハンを開始していたそうで、
(フィクサー役には、若山富三郎さん、安藤昇さん、勝新太郎さんなどが候補に挙がっていたそうです)
1979年6月末、ようやく、高田さんの脚本が半分近く完成したそうですが・・・
内藤誠に高田宏治の脚本を共に改訂することを依頼
それを読んだ大島さんは、伝えていたイメージと高田さんの書いてきたものが違っていたため、困惑したそうで、実は、大島さんが、以前、東映からオファーされた「やくざ戦争 日本の首領」を断った時も、同じような理由からだったそうですが、
今回こそは、なんとか実現させたかったそうで、以前、映画監督の若松孝二さんのパーティで根回ししていた、脚本家の内藤誠さんに協力を仰ぐことに。
(高田宏治さんは、それまでも東映で多くのやくざ映画を書いていました)
そこで、大島さんは、1979年7月3日、「大島渚プロダクション」に内藤さんを呼び出し、高田さんの書いた脚本を一緒に改訂することを依頼すると、内藤さんもこれを快諾したのだそうです。
(大島さんは、内藤さんに、東映を通さず、個人的に依頼していたそうです)
内藤誠が最初から脚本を書き直すことを提案
すると、数日後に、高田さんから脚本の続きが出来上がってきたそうですが、それを読んだ内藤さんは、改訂するよりも、高田さんの書いたものと並行して、内密に大島・内藤版の脚本を最初から書き直し、それを後で見せることによって、大島さんの意図が、プロデューサーや高田さんにも伝わりやすいのではと提案したそうで、大島さんもそれに同意したのですが・・・
(ただ、あくまで、大島・内藤版は見本ということで、決して二人が脚本を担当したいということではなかったそうです)
高田宏治の脚本を床に叩きつけていた
大島さんと内藤さんが脚本の執筆に取り掛かり、やがて、全体の3分の2ほど書き終えた頃、高田さんから脚本第1稿が仕上がってくると、
それは、やはり、大島さんにとっては受け入れがたい脚本だったそうで、カーッとなった大島さんは、なんと、高田さんの目の前で、高田さんの脚本を床に叩きつけ、自分たちで書いた脚本を日下部さんに見せ、どちらが良いか判断を仰いだそうで、
(同席していたプロデューサーの日下部さんは、後に、この時の出来事について、著書「シネマの極道 プロデューサー一代」で、「高田はよく耐えたものだ」と書き記しています)
日下部さんは、仕方なく、高田さんの脚本ではなく、大島・内藤版の脚本で撮影に入ることに決めたのだそうです。
(公開日まで3ヶ月ほどしかなく、この映画の最大の売りは大島さんが監督をすることだったことから、大島さんの機嫌を損ねないようにとの配慮からだったそうです)