信州(長野県)に学童疎開すると、「永」という中国姓のせいでイジメられていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、病気の方は、病院に行けなかったにもかかわらず、むしろ元気になり、すっかり治ったといいます。
「永六輔の幼少期は実家の寺が貧しく栄養失調になっていた!」からの続き
東京大空襲で東京の下町の空が真っ赤に染まるのを見ていた
東京では、1945年3月10日、午前0時8分、約300機の「B29」が、一般の住宅を標的に東京の下町に無差別に爆撃を開始すると(東京大空襲)、空襲は3月10日未明まで続き、
一晩で東京一帯は焼け野原となり、死者10万人、負傷者100万人という、かつてないほどの最悪な空襲となっているのですが、
(特にこの日のことを「東京大空襲」と呼ぶ場合が多いそうです)
1944年、小学5年生の時、信州に学童疎開していた永さんは、浅間山の麓から、東京の下町の空が空襲の被害を受けて真っ赤に染まるのを見ていたそうです。
(この東京大空襲で、永さんの家も焼けてしまったそうです)
空襲で東京の家が焼失したことから終戦後も疎開先の信州に残ることに
その後、永さんは、同年8月15日、小学6年生(12歳)の時、疎開先の信州にある南大井国民学校(現・小諸市美南ガ丘小学校)で、全校生徒が校庭に集められて聞いた玉音放送(天皇の肉声による放送)で戦争が終わったことを知ったそうですが、
東京の家は燃えてなくなっていたことから、東京へ帰ることができず、そのまま、信州に残ることを余儀なくされたそうです。
疎開先の信州では貧しさからたくあん工場でアルバイトをしていた
その後、1946年、13歳の時には、旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)に入学し、汽車で学校まで通うようになったそうですが、東京のお父さんからの仕送りは途絶えがちになったそうで、
(お父さんと一番上のお兄さん(長男)だけ、戦争中も東京に残っていたそうです)
永さん一家は、疎開先の農家の片隅で、肩身の狭い思いをしながら暮らし、夏休みには、お母さんと2人で、千曲川沿いの岩村田のたくあん工場に手伝い(大きな樽に入ってたくあんを漬ける仕事)に行ったそうです。
(この時、永さんは、人生で初めて収入を得たそうです)
医者から止められるも疎開したことで病気が治っていた
ちなみに、幼い頃、ほとんど小学校に行くことができないほど身体が弱かったという永さんは、疎開する時には、医師から、
病院から出るってことは死ぬということですよ
と、言われたそうですが、
実際に疎開すると、鍛えられたのか、身体が丈夫になったそうで、このことがきっかけとなり、永さんは、近代医療も医師も信用できなくなったそうで、
永さんは、
今の医学にも言えることだけれど、よけいな医療っていうのが絶対あると思います。ほっときゃ治るものも病気にしちゃうって。ラジウム放射線治療っていうのが当時、始まったばっかりだった。
その当時の最先端の医療は僕、受けてるんですよ。でも、疎開するってことは、その治療から離れるわけだから、病院からは「もう責任は持てないけれどもお大事に」って。 で、疎開に行って一年もしないうちに、どうしたのっていうくらい元気になっちゃった。
と、語っています。
「永六輔は少年時代ラジオ番組のコントの賞金で稼いでいた!」に続く