1962年、28歳の時、「吉本新喜劇」に入団すると、当初は、東京から流れ着いて来たのだろうという厳しい視線を感じ、笑いを取るどころではなかったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、大阪に打ち解けるための勉強を重ねるうち、やがて、仲間も増えていくと、そんな中、吉本新喜劇で思わず発した「やめてチョウダイ」が評判になったといいます。

「財津一郎は昔「夫婦善哉」を観て大阪の文化を勉強していた!」からの続き

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「吉本新喜劇」での劇団員生活は多忙を極めていた

本音で打ち解け合うことで、大阪の人々とも仲良くなり、徐々に仲間も増えていったという財津さんですが、劇団員生活は多忙を極めたそうで、

あまりに忙しくて食事をする時間がなく、ある時、開演5分前のベルが鳴った時にラーメンの出前が到着したことがあり、お腹に入れば一緒だと、楽屋に置いてあったアンパンをラーメンに入れて一緒に口に流し込み、駆け足で舞台に向かったことがあったそうですが、

それを見ていた他の芸人たちからは、

あいつ変わっとるわ~

と、言われたそうで、

今でもこの食べ方は、「財津ラーメン」と呼ばれ、伝説として語り継がれているそうです(笑)

(「吉本興業」は、客商売に徹底していて、常打ち(じょううち)小屋では10日ごとに演目が変わったことから、休みはなかったそうです)

「やめてチョウダイ」がたちまち評判になる

また、財津さんは、脇役ばかりだったことから、毎日、ヘトヘトになりながらも、お客さんの心をどのようにつかめばいいのか、必死だったそうですが、

やがて、しゃべりでは大阪の人にかなわないと悟ると、しゃべりがダメなら、大げさなリアクションで笑いを取ってやろうと、メンデルスゾーンの「春の歌」を口ずさみながらぴょんぴょん飛び回ったりしていると、この財津さんの特異なキャラクターが評判に。

そして、このことが功を奏してか、1965年には、時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」への出演が決まると、財津さんは、吉本新喜劇の舞台と「てなもんや三度笠」への出演という、2つの仕事を必死にこなす毎日となったそうですが、

ある日、吉本新喜劇の舞台で「やめてチョウダイ」と奇声を発すると、これが観客にウケ、たちまち、評判となったそうです。

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「やめてチョウダイ」は心の叫びだった

それは、吉本新喜劇の舞台で、父親役を演じていた財津さんと息子役を演じていた花紀京さんが銭湯で激しい親子ゲンカをしている中、花紀さんが急に静かになり、「おやじと縁を切ってもええで」と言いながら、敷居を越えて家を出ていこうとするシーンがあったそうですが、

財津さんが、思わず、

やめてチョウダイ

と、叫ぶと、これが観客にウケたのだそうです。

ただ、財津さんは、この「やめてチョウダイ」を、観客を笑わそうと思って言ったわけではなく、当時の大阪での極貧生活から、自然に出た言葉だったそうで、

財津さんは、この時のことを、著書「聞いてチョウダイ 根アカ人生」で、

まさに実生活から出た心の叫びでした。親子3人、生きるか死ぬかのぎりぎりの極貧生活を続けています。「私を、家族を、助けたまえ」天に向かって叫ぶ、そんな心境でした。

会場は爆笑の渦に包まれました。笑わそうなんてこれっぽっちも思っていません。私の魂の叫びを笑うのか。その時は大変ショックを受けました。

しかし、この奇声は、たちまち評判になり、私の人生は急上昇しました。

と、綴っています。

「財津一郎は昔「非っ常にキビシー」「してチョウダィ!」のギャグで大ブレイク!」に続く


聞いてチョウダイ 根アカ人生

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