「東宝新劇団」に入るやいなや、作家の中野実さんを怒らせ、一度も舞台に立つことなく、「東宝歌舞伎」に左遷されると、「東宝歌舞伎」でも、新歌舞伎「宮本武蔵」で野武士の死体役しか与えてもらえず、そのことへの不満から、幹部を怒らせるような失態を繰り替えし、やがては、端役どころか、”馬の脚”の役をやらされたという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、ついには、「東宝歌舞伎」もクビになり、喜劇役者の古川ロッパさん率いる「ロッパ一座」に入座したそうですが、その後は、徴兵から逃れるため、アナウンサーに転身したといいます。
「森繁久彌が若い頃は「東宝歌舞伎」で”馬の脚”の役をやらされていた!」からの続き
「ロッパ一座」では古川ロッパに可愛がられていた
「東宝歌舞伎」では、”馬の脚”の役までやらされ、ついには、クビになったという森繁さんは、その後は、喜劇役者の古川ロッパさん率いる「ロッパ一座」に入座し、古川さんにかわいがられたそうです。
ただ、1938年には、応召され、やむなく軍隊に入りすると、すぐに、耳の大手術をしたそうで、その日のうちに、郷里に帰されたそうです。
(ウィキペディアには、1937年に「ロッパ一座」を退座とありますが、1938年9月の日比谷・有楽座公演プログラムに掲載された一座の連名表には、森繁さんの当時の芸名「藤川一彦」の記載があり、その上に「出征」と記載されているため、退座したというよりも、応召されて不在だったようです)
NHKのアナウンサーに転身し満州に赴任していた
その後、森繁さんは、再び徴兵されるのを避けるため、1939年には、NHKのアナウンサー試験を受けると合格し、NHKに入社したそうで、
(当時、アナウンサーは、徴兵されずに済む数少ない仕事だったそうです)
太平洋戦争が激化し日本が敗戦色を強めていった頃には、旧満州(現在の中国東北部)にある「満州電信電話株式会社」の新京中央放送局に赴任し、アナウンサー業務のほか、原稿書き、「満洲映画協会」製作の映画のナレーション、演出などで、数多くの番組の制作に携わったそうです。
(戦時中は、京城・台北・天津・上海などの外地の放送網が拡大された為、満州、台湾、朝鮮、華北、華中にも同様の放送局が作られ、NHKから多数の職員が派遣されたそうで、森繁さんもその中の一人だったそうです)
日本の敗戦を1週間前に知っていた
ちなみに、森繁さんたち放送員は、川一本隔てたところにあるソ連軍に対して謀略放送を行う等、政治的な活動もしていたほか、
(見つかれば、確実に殺されていたであろうほど、接近したこともあったそうです)
新京の放送局には、日本語、満州語放送以外にも、英米向け、ロシア向け、朝鮮・モンゴル・中国向けの放送が波を出していたため、各国の情況を入手でき、1945年8月8日頃から、日本が降伏するだろうということを、薄々知っていたといいます。
というのも、もちろん、そのことは極秘で、本来は、局の一部の人間しか知らないはずのことなのですが、森繁さんたち放送員にも漏れ伝わっていたそうで、森繁さんは、密かに、関東軍(日本の軍人)の動きを注視していたところ、1945年8月8日頃、新京から、今まで大勢いた関東軍の姿が消えていたことに気づいたのだそうです。
(「関東軍が白頭山麓の最後の要塞に立てこもって進撃を試みる」という噂がまことしやかに流れたそうですが、実際には、関東軍は、まず、自分たちの家族を列車が正常に動くうちに南下させ、最後には、本人たちも乗って、森繁さんたち民間人を置き去りにし、新京の城を明け渡してしまったのだそうです)
「森繁久彌は満洲で火炎瓶を手作りするも失敗に終わっていた!」に続く