NHKに入社すると、満洲の新京中央放送局に赴任し、アナウンサー業務と「満洲映画協会」の映画のナレーションを掛け持ちしていた、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、1945年8月8日には、薄々、日本が敗戦するのではないかと気づくと、翌9日には、市民で編成された部隊がやって来て、ほどなくソ連軍が新京にも押し寄せてくることが告げられたそうで、火炎瓶を手作りすることを提案したそうですが・・・

「森繁久彌が若い頃はNHKのアナウンサーとして満州に赴任していた!」からの続き

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満洲では市民で編成された部隊が突然やって来た

1945年8月9日、「満洲映画協会」のある南湖と街の中間の、森繁さんたちが住む新京の東南部の社宅街にあった順天小学校というところに、どこで編成されたのか、ヨレヨレのおじさんたちの部隊が、長と思われる准尉に連れられてやって来たそうで、

(准尉と思われる人も含め、おじさんたちは、鉄砲がわずか5丁ほどあるだけの丸腰で、つい2~3日前まで、街のどこかで働いていたような一般市民だったそうです)

社宅の婦人連は、順天小学校に集められ、

(森繁さんも一緒に行ったそうです)

いまや、事態はいよいよ急を告げ、どうなるか私にも分らん。しかし、白城子方面から入城して来るソ軍は、ちょうどこの辺に入って来る模様である。

女子供といえども最後まで死守するつもりで軍の方針に協力してほしい。ついては、武器も少ないので、各家にある庖丁(ほうちょう)は一つを残して全部供出してくれ。

今、竹棒を集めに兵隊を出しているから、それが間もなく帰って来たら、半分の人は尖(先)にデバ庖丁などを縛りつけて各自の武器を作ってほしい。あとの半分の人は、これから指定する所に壕を掘って貰います

との演説を聞かされたそうですが、

森繁さんは、これを聞いて、情けなく思ったそうです。

市民で編成された部隊の准尉が顔見知りだった

ただ、この准尉、よく見ると、在郷軍人で顔見知りだったことから、森繁さんは、演説の後で会いに行ったそうですが、

准尉から、

ああ、森繁さん、お宅、この近所ですか。いや助かりました。 私も何をしていいのか見当がつきません。命令ははっきりしないし、しようがないから、こんなことでもするんですが、一つ力を貸して下さい

実は、火薬が少しばかりありますが、何とかならんでしょうか

と、言われたそうで、

森繁さんが、

火炎瓶はどうだ

と、言うと、

准尉は、

結構ですが、つくり方は分りますか

と、ますます、頼りないことを言ったそうです。

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満洲では火炎瓶を手作りするも失敗していた

そこで、森繁さんが、

家に映画のフィルムが大分ありますから、火薬をビール壜(びん)につめて、導火線にフィルムをつけて、火をつけて投げてみたらどうだろう

と、提案すると、

やってみてほしいと言われたことから、森繁さんは、さっそく、近所からビール瓶を提供してもらい、その製造に取り掛かり、

これで戦車がひっくりかえるわけではないが、みんなが死ぬ時くらいは、役に立つだろう

と、思いつつ、作ったそうです。

そして、いよいよ、作った火炎瓶を公園に持っていき、実験する時には、マッチを擦る手が震えたそうですが、どうせ死ぬかもしれないんだと思いつつ、火をつけて投げると・・・

火炎瓶は、シュルシュルという音が鳴って飛んで行くも、みな途中で消えてしまったそうで、ドーンという音どころかポンという音さえ聴こえず、コトンと林の中に落ちてしまったのだそうです。

「森繁久彌は敗戦後満洲・新京に残り家族と別れていた!」に続く

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