2度結婚をし、奇しくも、妻を2人とも乳ガンで亡くした、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、子供は、前妻・末子さんとの間に女の子が2人いるといいます。今回は、そんな田原さんの子供たちと現在の恋人、そして、現在、噂されていることについてご紹介します。
「田原総一朗は意識のない妻を置いて北朝鮮に出張していた!」からの続き
娘(長女)はテレビ朝日のプロデューサー
田原さんの長女は、1963年に誕生した田原敦子さんで、「テレビ朝日」に入社し、現在は、「世界の車窓から」と「徹子の部屋」のプロデューサーをしているそうです。
ちなみに、田原さんによると、敦子さんは、赤ちゃんの頃、妻の末子さんが母乳を飲ませた後、抱いていれば眠っていたそうですが、布団に寝かせようとすると、途端に泣き出してしまい、いつも抱いていなければならなかったそうで、
田原さんは、末子さんと、
銭湯に置き去りにして金持ちに拾ってもらおうか
と、よく、冗談を言い合っていたそうです(笑)
娘(長女)の田原敦子さん。
娘(次女⇒三女)は自身の秘書
また、次女は、1966年に誕生した(和田)眞理さんで、現在、田原さんの秘書をしているそうですが、長女の敦子さんとは違い、全く手のかからない子供だったそうです。
田原さんと幼少期の娘たち。
ちなみに、2人目の妻・節子さんとの間には、子供はいないそうです。
(もともと、田原総一朗さんの長女は敦子さん、次女は眞理さんでしたが、田原節子さんの連れ子の綾子さんが特別養子縁組となったことで、綾子さんが次女となり、眞理さんは三女になったと思われます)
和田眞理さん(2016年当時)。
70歳超で高校時代のサークルで好きだった女性に告白し交際
そんな田原さんは、現在、食事をしたり、デートをする彼女がいるそうです。
田原さんは、1950年4月、彦根東高校に進学後、小説を書く生徒の集まり「文学会」というサークルを結成しており、その「文学会」の仲間たちとは、高校卒業後も、同窓会で集まり、ずっと仲良しでいたそうですが、
実は、当時、その中に好きだった女性がいたそうですが、告白することができなかったそうで、70歳を過ぎてから告白することができたのだそうです。
(その彼女も伴侶を亡くして、独身に戻っていたそうです)
くちゃくちゃと音がする原因は?
ところで、田原さんは、最近、「滑舌が悪い」「くちゃくちゃと音がする」と、しばしばネット上で言われています。
というのも、ある頃から、「朝まで生テレビ!」で、田原さんが話をしている時に、口をくちゃくちゃさせる音が入り、「気になる」「聞き苦しい」と感じている視聴者が多いというのです。
ただ、これは、「入れ歯」の音だそうで、入れ歯を自分に合ったものに作り変えるだけで、この問題は解決するそうですが、現在も続いているところをみると、田原さん自身が気にしていないようです。
(近年は、マイクの向上により、人間の発するちょっとした音でも拾ってしまうということもあるようです)
滑舌が悪いのは加齢のせいだった
また、滑舌が悪くて聞き取れないことについては、インターネットテレビ「ABEMA Prime」に出演した際、共演者で、お笑いタレントのパックン(パトリック・ハーランさん)が、
仕事が大好きだというのは伝わってくるが、それ以外に、食欲とか性欲とかはあるのか。若い頃の活力を思い出して、耳が遠くなったとか、滑舌が少し悪くなったとか、記憶力が落ちたとか、そういうことを悔しく思うことはないのか
と、尋ねると、
田原さんは、
僕は女房が2人ともガンで亡くなっているが、今は彼女がいる。高校の同級生で、彼女も夫を亡くしている。月に何回か食事をするし、デートが楽しい。
確かに滑舌は悪くなったし、物忘れも激しくなった。だけど全然悔しくはない。誰も“番組を辞めろ”とは言わないから楽しい
と、答えており、
滑舌が悪くなったこと、また、それが加齢からきていることを自覚しているにもかかわらず、ネット上で話題になっていることは、特に気にしていないようで、
2022年6月30日、「5時に夢中!」に出演した際には、年内で芸能活動を終了する吉田拓郎さんの話題に言及し、
僕なんかはねアーティストじゃないからね。それやっぱり、80歳でって今、活舌が悪くなったの
でも悪くなったっていいじゃないと思う
この人(吉田さん)はアーティストだから、歌い方、のどがダメになると辞めた方がいいと思う
(吉田さんと)似たようなのだと、久米さん。70代で“引退”して。彼は喋り方が、滑舌が悪くなるのが嫌なんだろうね
(田原さん自分は滑舌をウリにしていないと話し)だから悪くなったって平気なんだよ
と、語っています。
さて、いかがでしたでしょうか。
田原総一朗さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 父方の先祖は「鉄くず屋」⇒「生糸商」
- 父方の祖父・孫助は母方の田原家の婿養子となっていた
- 父親は器用で絵を描いたり楽器を弾いたりブロマイドを手作りしたりしていた
- 母親は教育熱心だった
- 祖母・田原志げは気が強く気位が高かった
- 祖母・田原志げから教わった「運・鈍・根」とは
- 祖母・田原志げから教わった「三方善(さんぽうよし)」とは
- 祖母・田原志げからは役人にはなるなと言われていた
- 幼少期は裕福な家庭で育つ
- 父親は女性にモテた
- かかあ天下だった
- 母親と祖母は折り合いが悪かった
- 実家は生糸商が傾き製網を生業とするようになっていた
- 幼少期は病弱も・・・
- やがて幼稚園ではやんちゃ坊主に
- 幼稚園の時は絵を描くことが大好きだった
- 「清水の次郎長」の絵を描いて幼稚園の先生に呆れられていた
- 親戚に画家がいた
- 父親が絵を描くのが好きだった
- 小学校に入学した年の暮れに太平洋戦争が始まる
- 小学校の授業で戦争の様子を教えられていた
- 小学校では満蒙開拓青少年義勇軍の絵日記を描いていた
- 戦時中の食事は質素だった
- 小学校時代は外食が一番の楽しみだった
- 戦争が長引くと次第に生活が困窮していった
- 服は父親のおさがり、靴は自作の草履だった
- 小学校4年生の時に学校で軍事教練が始まる
- 軍事教練は厳しく殴られ鼻血を出したことも
- 都会から疎開して来た子供たちに教科書を読む役目を取られ悔しい思いをしていた
- 戦意高揚の歌「勝ち抜く僕等少国民」を今でも歌うことができる
- 兵士を送り出す時に歌った「露営の歌」を今でも歌うことができる
- 海兵になって20歳で死ぬつもりだった
- 戦争に勝てないことを薄々感じるようになっていった
- 彦根も空襲を受けていた
- 陸軍に入隊した従兄弟はルソン島で戦死
- 海軍に入隊した従兄弟は乗っていた船が機雷に攻撃され戦死
- 叔父は軍隊で壮絶なリンチを受け脳や精神状態がおかしくなったまま死去
- 小学5年生の時、玉音放送を聞いて終戦を知る
- 敗戦を知り絶望的な気持ちになっていた
- 彦根市街に輝く灯りを見て戦争が終わった解放感に浸る
- 敗戦後は裕仁天皇(昭和天皇)の存在に疑問を持つようになった
- 子供なりに天皇の疑問を小説に書いたこともあった
- 裕仁天皇(昭和天皇)の凍りついた笑顔に好感を持つ
- 間違ったことを教えてきたことについての謝罪が教師からなく腹を立てていた
- 修身と歴史の教科書を墨で塗りつぶさせられていた
- 教師を質問攻めにして立たされていた
- 中学時代は教師をイジメて面白がっていた
- 国語の教師をイジメて辞めさせたこともあった
- 試験でわざと「鎌倉五山文学」を「室町五山文学」と書いて提出し教師に因縁をつけていた
- 後醍醐天皇と足利尊氏の争いについても無理な質問をして教師を困らせ楽しんでいた
- 中学の頃から論争を楽しんでいた
- 小学校~高校1年生まで野球に夢中だった
- 絵はコンクールで賞をもらうほどの腕前だった
- 中学の時に小説も書き始めていた
- 高校時代はサークル「文学会」を立ち上げていた
- 高校2年生の時、後輩の絵を見て絵を描くことに挫折
- 父親から新聞社に入って絵を描くよう言われていた
- 家計が傾き仏壇まで売り払っていた
- 母親が帯の刺繍などで家計を支え家の売却を免れていた
- 父親は大阪の問屋で下働きを始めていた
- 家計を助けるためアルバイトをしていた
- 作家になるために早稲田大学を目指していた
- 早稲田大学へ進学することを母親に反対されていた
- 母親を説得できないまま交通公社の試験を受け合格
- 上京するための夜行列車に母親は見送りに来なかった
- 自責の念にかられていた
- 交通公社の研修で劣等感を味わう
- 早稲田大学を受験するも不合格だと思いこんでいた
- 早稲田大学の教授に不合格の理由まで教えてもらっていた
- 一転して早稲田大学に合格していたことが判明し大喜びしていた
- 彦根弁を笑われていた
- 3日で標準語を話せるようになる
- 特急の番号を間違えて書きダブルブッキングのクレームが来たこともあった
- 会社へ行くのが嫌になり仮病を使って休んだことも
- 入社1年で切符売り場から定期券売り場に回されていた
- 定期券係の仕事場は窓のない倉庫のような部屋だった
- 書き損じ(不正使用できる)の定期券をもらい異動させられる
- 使えない社員のたまり場に回される
- 娼婦たち目当てに旅館が売り込みに来ていた
- ワイロを正直に上司に報告するも激怒されていた
- 早稲田大学の講義には真面目に出席していなかった
- 早稲田大学の同人誌「早稲田文学」はレベルが高過ぎて参加しなかった
- 文学賞に応募するも箸にも棒にもかからなかった
- 同人誌の先輩から何度も文才がないと言われ自信をなくしていった
- 石原慎太郎の「太陽の季節」を読んで衝撃を受ける
- 「太陽の季節」は実話に基づき生々しく書かれていた
- 大江健三郎氏「死者の奢り」にも衝撃を受け作家になる夢を断念していた
- 作家になる夢を断念しジャーナリストを目指す
- 早稲田大学第1文学部を受け直すことを決意
- 精神的に追い詰められた状態の中で早稲田大学第1文学部を受験していた
- 下宿代と実家への仕送りをするためアルバイトに明け暮れていた
- 家庭教師の延長で塾まで開いていた
- マスコミ関係の就職試験を受けるもことごとく不合格だった
- 「岩波映画製作所」を投げやりで受験
- 「岩波映画製作所」の映画を徹底批判したにもかかわらず一次試験に合格
- 「岩波映画製作所」の面接では昼食を要求していた(ラーメン事件)
- 「岩波映画製作所」に合格し入社
- 「岩波映画製作所」では撮影部に配属されるも失敗の連続だった
- 高価なカメラを落としそうになったことも
- フィルムがきちんと装塡できておらずめちゃくちゃにしたことも
- 麻雀に参加しなかったことから嫌がらせを受けたことも
- 撮影助手を降ろされる
- テレビ番組「たのしい科学」のアシスタントになる
- 来る日も来る日もスポイトでミルクを落としていた
- 「たのしい科学」でポリオ(小児麻痺)をテーマにシナリオを書くことに
- 取材には1時間以上かけ50分は無駄話をし残りの10分で勝負をしていた
- ポリオ(小児麻痺)を題材にした科学映画を「ヌーヴェルヴァーグ風」に撮影することを思いつく
- 「ヌーヴェルヴァーグ」風に撮影するも当初は失敗していた
- 親友の清水邦夫に自分でフィルムを編集するようアドバイスされる
- 「ヌーヴェルヴァーグ」の旗手ジャン・リュック・ゴダールの映画を真似て作る
- 「ヌーヴェルヴァーグ」風に自分で編集した作品が放送され好評を博す
- 日本テレビで「こんにちは二十世紀」「奥さま こんにちは」の構成をしていた
- 当初はテレビのいい加減さに驚くも・・・
- やがてテレビのインチキ臭さに魅力を感じていった
- 翌年に開局する「東京12チャンネル」への転職を勧められる
- 形だけの入社試験を受けて「東京12チャンネル」に入社
- 「岩波映画製作所」を退職する際には負い目を感じていた
- 「東京12チャンネル」開局記念番組に安部公房のSFドラマを提案していた
- 安部公房に電話でドラマのための書き下ろしを依頼するも断られていた
- 安部公房と直談判するため自宅前に張り込んでいた
- 安部公房は田原総一朗の提案をすんなり了承してくれた
- 安部公房からはSFドラマ「こんばんは21世紀」を書き下ろしてもらうことに
- 安部公房はドラマを書く条件にフランキー堺と加賀まりこの出演を希望していた
- フランキー堺と加賀まりこのドラマ出演を取り付ける
- 「東京12チャンネル」開局記念番組「こんばんは21世紀」が高視聴率を記録
- ドキュメンタリー「未知への挑戦」を手掛ける
- ソ連で開催された世界ドキュメンタリー会議に日本の代表として招待される
- 同僚のディレクターたちに従い新しいプロデューサーと団体交渉することになるも・・・
- プロデューサーをたった1人で吊るし上げ「未知への挑戦」の担当を降ろされる
- 「未知への挑戦」の成功を妬んだ同僚たちに陥れられていた?
- 報道部に移籍
- 特別少年院に入所している少年のドキュメンタリーを手掛けることに
- 久里浜の特別少年院の院長に取材協力を依頼
- 特別少年院の院長に少年Mを紹介してもらう
- 録音担当の安田哲男が少年Mを引き取ることを申し出る
- 少年Mが院長から訓示を受けるところから撮影することに
- 少年Mの希望で調理師学校に入学する手配をする
- 少年Mの要望で撮影を一旦中止していた
- 少年Mが調理師学校を退学させられそうになった際に少年院出身であることを告白させるも・・・
- 少年Mと仲間たちから100万円を要求される
- 少年Mにたびたび呼び出されて手持ちのお金をせびられていた
- カルメン・マキに詩の通りの同棲生活を始めさせていた
- カルメン・マキと支那虎は本当に愛し合うようになっていた
- カルメン・マキが歌手に挑戦する様子も密着取材していた
- カルメン・マキのデビュー曲「時には母のない子のように」が大ヒット
- 映画「あらかじめ失われた恋人たちよ」を製作
- NHKに解雇された龍村仁の裁判で証言
- ドキュメンタリー「あるテレビディレクターの投げた波紋」を制作するも・・・
- 「あるテレビディレクターの投げた波紋」がNHKからのクレームで放送中止に
- 「東京12チャンネル」がNHKからのクレームで放送を中止した理由とは?
- 朝日新聞の取材に答え左遷される
- 仕事を干されている間に「原子力戦争」を連載
- 「原子力戦争」連載は原子力船「むつ」の放射線漏れのトラブルがきっかけだった
- 「原子力戦争」は国会で大きな問題になっていた
- 大手広告代理店「電通」がCR作戦を仕切っていることを暴露
- 「電通」から圧力がかかり上司から連載を打ち切るように言われるも・・・
- 「東京12チャンネル」を退職
- 「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」でテレビジャーナリズムの新境地を開拓
- 出演作品(レギュラー)
- 出演作品(ゲスト・不定期出演)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 出演作品(映画)
- 監督作品(映画)
- 著書
- 著書(訳書)
- テレビドキュメンタリー
- テレビドキュメンタリー(ドキュメンタリー青春)
- テレビドキュメンタリー(ドキュメンタリーナウ!)
- テレビドキュメンタリー(シリーズ・特集)
- 最初の妻・末子との馴れ初めは?
- 銭湯に行く道すがらが話をする唯一の機会だった
- 妻・未子は当初は同情から交際していた
- 3歳年上の従姉妹・末子との交際は末子の家族全員から反対されていた
- 3歳年上の従姉妹・末子と結婚
- 新婚生活は四畳半一間の部屋もそこそこ裕福な暮らしだった
- 結婚後、日本テレビのアナウンサー・村上節子と知り合う
- 村上節子は女王様のようにズバズバと発言する女性だった
- 村上節子と話が合い相性が良いと感じていた
- 村上節子には恋人役も担ってもらっていた
- 村上節子との間にはしこりとなる出来事もあった
- 村上節子とはしばらく接点がなくなっていた
- 村上節子は約束の時間に現れなかった
- 村上節子が一番の理解者に
- 村上節子と二人きりで旅行に
- 初めての旅行では男女関係にはならず日帰りで帰っていた
- ついに村上節子と男女の関係になる
- 村上節子との不倫をやめることができなかった
- 村上節子と二人だけの隠れ家を借りていた
- 妻・末子に乳ガンが発覚
- 妻・末子の乳ガンが手術後2年半で再発
- 妻・末子が他界
- 妻の死から5年後に村上節子と再婚
- 村上節子は田原総一朗の体調不良を気遣いプロポーズを受けていた
- 村上節子と再婚後はさらに胃腸の調子が悪化していた
- 2人目の妻・節子に生活全般を頼り切りだった
- 2人目の妻・節子は仕事面でもサポートしてくれていた
- 2人目の妻・節子には自律神経失調症で入院中つきっきりで看病してもらっていた
- 2人目の妻・節子も「乳ガン」で余命半年の宣告を受ける
- 2人目の妻・節子が乳房を全摘出する大手術
- 2人目の妻・節子は余命宣告を隠されていたことを激怒していた
- 2人目の妻・節子を受け入れてくれる病院探しに難航していた
- 2人目の妻・節子は聖路加国際病院の中村清吾医師の治療を受けるも・・・
- 2人目の妻・節子のガンが脳と骨に転移
- 2人目の妻・節子を置き仕事でアメリカへ出張していた
- 2人目の妻・節子の容態が悪化するも今度は北朝鮮に出張していた
- 北朝鮮に出発する前に2人目の妻・節子のためにメッセージをテープレコーダーに吹き込んでいた
- 北朝鮮出張中に2人目の妻・節子が他界
- 娘(長女)はテレビ朝日のプロデューサー
- 娘(次女)は自身の秘書
- 70歳超で高校時代のサークルで好きだった女性に告白し交際
- くちゃくちゃと音がする原因は?
- 滑舌が悪いのは加齢のせいだった
について、まとめてみました。
ネット上では、「老害」「(朝まで生テレビ!)を降板した方がいい」と辛辣な意見が多い中、全く意に介さず、番組に出られることが「楽しい」と語っていた田原さんですが、そんな良い意味での鈍感力が、70歳を過ぎても現役を続けられる秘訣であり、また、田原さんの独特の魅力となっているのかもしれません。
「田原総一朗の父親は?母親は?先祖は「鉄くず屋」⇒「生糸商」!」