満洲では、1945年8月9日、市民で編成された部隊がやって来て、もうすぐソ連軍が来るため軍の方針に協力してほしい旨の演説を聞かされ、火炎瓶を手作りするなど、素人なりに協力したという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、その後、ますます、情勢は悪化し、同月15日の朝には、家族だけ新京を発てという命令が出たといいます。
「森繁久彌は満洲で火炎瓶を手作りするも失敗に終わっていた!」からの続き
敗戦間近になると悲惨な事件が次々と起きていた
満洲では、1945年8月9日、突如やって来た編成部隊の准尉に、各々、家にある包丁を出して武器を作るよう言われると、翌10日、翌々11日には、ますます情勢が悪化し、局員の間でも、日本が負けるという話が漏れ始めて、この非常事態にみんなの口は重くなっていったそうで、
森繁さんの近所の家では、「ご主人が家族を日本刀で殺して、自分も防空壕で腹と胸を刺して自害する」「家族の首を絞め、自分も首を吊って死ぬ」というような、悲惨な事件が次々と起こり始めていたそうです。
(森繁さんたちは、その遺体を空き地へ埋めたそうですが、夜な夜なリンが燃えるほか、雨が降ると、腕や足が出てきたそうで、その陰惨な末世の様子は他人事とは思えず、陽気だった森繁さんたち家族も、さすがに暗澹(あんたん)たる気持ちになったそうです)
森繁家には新京の見知らぬ人たちが次々と転がり込んできていた
そんな中、新京にいた旅行者たちが、ぞろぞろと森繁さんたちの所に転がり込んできたほか、「文化座」のメンバーが、食うに困り、シラミだらけで転がり込んで来たり、
見知らぬ兵隊が2人も3人も居候に来たり、他の会社の寮に住んでいた中学上がりの青少年も寂しくなって慕ってくるなど、森繁家はいろいろな人たちでごった返すようになったそうです。
玉音放送で敗戦が伝えられ家族だけ新京を発つことに
そして、1945年8月15日早朝には、突如、
ただ今から最もすみやかに新京を立退け
手ぶらでいいからすみやかにトラックに乗れ
という命令が出て、
追い立てるような怒号が社宅中に響き渡り、正午には、ラジオから流れる玉音放送(天皇の肉声の放送)で敗戦が伝えられたそうですが、
(何が何だか分からないが、もう、土壇場へ来たんだということが、女性や子供たちにも分かったようで、そうなると、人を蹴倒して自分一人でも生き伸びようと、狂気の修羅場となり、ジキルがハイドに変身するかのように、普段は美しい貞淑な妻が、般若のごとく、持てるだけのものを背中と言わず腹と言わずに両手両肩に満載に持ち、人々を突き倒し、押しのけていたそうです)
男性はみな、会社に残ることが決定していたため、家族だけを汽車に乗せなければならなかったそうで、森繁さんの奥さんは、トラックに乗り損ねたことから、ありったけの荷物を乳母車に積み、3人の子供と身体の弱いお母さんを連れて、森繁さんが勤務する放送局まで別れに来たそうですが、森繁さんは、どうにも、奥さんたちだけを汽車に乗せるのは、気が進まなかったそうです。
というのも、一体、どこへ行かされるのか分からず、あまりにも、無意味で、無謀にしか思えなかったからなのですが、命令には背くことができず、森繁さん夫婦は、放送局から駅まで黙って歩いたのだそうです。
(奥さんは、森繁さんが一言でも口を聞けば、そのまま引き返すに違いない顔をしていたそうです)
「森繁久彌は敗戦後満洲でソ連兵の暴虐に怯えて暮らしていた!」に続く