1945年8月15日早朝、突如、家族だけ満洲・新京を発つことを命じられ、正午には玉音放送(天皇の肉声)で敗戦が伝えられると、帰国する家族を泣く泣く駅で見送ったという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、それから3日後には、汽車で旅立ったはずの家族が戻って来ることに。ただ、今度は、ソ連兵の進駐が進み、略奪、暴行、陵辱に怯える日々を過ごしたといいます。
「森繁久彌は敗戦後満洲・新京に残り家族と別れていた!」からの続き
家族が満洲・新京から旅立つのを見送る
満洲・新京を発つ家族を駅まで見送りに行くも、道すがら、奥さんとは一言も言葉を交わすことができなかったという森繁さんは、ごった返す駅では、もみくちゃにされながら、やっと、屋根のない貨車に子供たちを乗せると、無心にはしゃぐ子供たちを見て、何度も胸がつまったそうで、用もないのに忙しく他人の世話をして回ったそうですが、
そのうち、汽車は日本の方向に向かって動き出したそうで、子供たちがみな、いつまでも、「パパー」「お父ちゃん」などと呼んでいる声が、やがて小さくなり消えて行くと、見送っていた男性たちの顔はみな下を向き、涙でクシャクシャになったそうです。
(森繁さんは、その帰り道、長い社宅街がどこの家も空っぽでひっそりとしているのに、骨董品や書画がそのまま床に飾られ、誰もいない家で置き時計がチクタク動いているのを見て、虚しさを感じ、地球の最後に思えてならなかったそうです)
寂しさから独身寮の社員たちを家に連れて来ていた
その夜、社宅に残った男性たちは、みな寄り集まり、お酒を飲んで心を紛らわせ、やがて、忍び寄る死の影を払いのけようとするかのように、大声で歌を歌い出す者もいたそうで、
森繁さんも、近所の独身寮へ出かけて行き、
淋しいものはやって来い
と、10名ほど家に連れて来て、
(本当は、寂しいのは、彼らではなく、自分自身だということは分かっていたそうですが)
もう何があっても役にも立たないから、この家をかき廻して欲しいものはみな持って行け
と、言ったそうですが、
服はその場で着込む人はいたものの、そのほかは、誰も何も欲しがらなかったそうです。
家族が満洲・新京に戻ってくる
しかし、何があったのか、翌日には、汽車に乗せられて日本に帰ったはずの人々全員が、次の日に新京に帰って来るという連絡が入ったそうで、
森繁さんは、たった3日ではあったものの、離れ離れになっていた奥さんと再会を喜び合うと、
奥さんは、涙を流しながら、
パパ、もうこんなことはいや。一緒に死んでもいいから、みんなで居ましょう
と、言ってくれたそうで、
夕食に温かい味噌汁を飲み、状況が理解できずにおどおどしている子供たちを眠り慣れた布団に寝かしつけ、ようやく、本当に、ホッとしたのだそうです。
(奥さんの話によると、汽車は、途中、大雨に遭って立ち行かなくなり、戻ることを余儀なくされたのだそうです)
ソ連兵の暴虐に怯えて暮らしていた
そんな喜びも束の間、そのうち、ソ連軍が次々と進駐してくると、略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、やがては、街の中心から、森繁さんの住む街外れの社宅街にも乗り込んできたそうで、
(「カーペー」という憲兵の屯所が所々に設けられたそうですが、この「カーペー」も、やがては、ソ連軍と同じ穴のムジナとなって手のつけようがなくなったそうで、その恐怖で、市民はすっかり縮み上がってしまったそうです)
社宅の人たちは、ソ連兵がどこの家に入るのか戦々恐々として、家の壁やドアに五寸板を縦横に釘づけし、それに鉄条網を張り、隣りの家とは壁を抜いてお互いに逃げ道を作るほか、電線やヒモを引いて近所へ連絡できる手段を作り、近所の家にソ連兵が押し入った場合には、金だらいや鍋を叩いて喚声をあげ、兵隊の気力をそぐ、という方法で、近所へ連絡するようにしたのだそうです。
(猛獣の撃退方法をマネたそうです)
ちなみに、ソ連兵が一番驚いたのは、電話の呼出音だったそうで、森繁さんの家にソ連兵が乱入して来た際、ヒモを引いて近所に知らせると、隣の家から森繁さんの家に、電話がけたたましくかかってきたそうですが、何が恐ろしいのか、この電話の音に、ソ連兵たちは、パっと身をひるがえして退散したのだそうです。
(ただ、これも初めのうちだけで、やがて通用しなくなったそうです)
「森繁久彌は昔満洲でソ連兵に家に押し入られ銃撃されていた!」に続く