ようやく終戦するも、まもなくお母さんが急逝してしまったという、小山明子(こやま あきこ)さんですが、高校卒業後は、ファッションデザイナーを目指し、「大谷学園横浜ドレスメーカー女学院」に通う中、雑誌「家庭よみうり」の表紙を飾ったことがきっかけで、「松竹」にスカウトされ、映画界入りすると、次々と映画出演を重ねます。

「小山明子の生い立ちは?病弱ながらも活発だった!」からの続き

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終戦後は兄によく西部劇を観に連れて行ってもらっていた

ようやく戦争が終わるも、東京の自宅が空襲で焼けて失くなってしまった小山さん一家は、横浜の鶴見市に引っ越ししたそうですが、お母さんが他界していない中、お父さんも仕事でブラジルに行ってしまったそうで、兄弟で家事を分担して生活したそうですが、

すぐ上のお兄さんが西部劇の映画によく連れて行ってくれるなど、特別、裕福ではなかったものの、ごく普通の暮らしができたそうです。

(当時は、まだテレビはなく、娯楽は映画ぐらいしかなかったそうです)

「松竹」にスカウトされて芸能界入りを決意

そんな小山さんは、高校卒業後は、ファッションデザイナーを目指し、横浜の洋裁学校「大谷学園横浜ドレスメーカー女学院(現・横浜高等教育専門学校)」に通っていたそうですが、ファッションショーに出演すると、雑誌「家庭よみうり」の表紙を飾ったそうで、

このことがきっかけで、「松竹」にスカウトされると、それまで、女優になることなど考えたこともなかったそうですが、女優という仕事に興味を持ち、映画界に入りたいと思ったそうです。

当初は父親に芸能界入りを反対されていた

しかし、お父さんは、一人娘が浮き沈みの激しい芸能界に入るなんてとんでもないと映画界入りに猛反対。

それでも、スカウトしてくれた「松竹」の上層部の人が、お父さんの大学の大先輩だったため、お父さんは、仕方なく、小山さんの芸能界入りを承諾したそうです。

(ちなみに、お父さんは60歳で再婚すると、再婚相手(小山さんの継母)と共に長生き(お父さん97歳、継母100歳)したそうですが、子供の頃に実母を亡くした小山さんにとって、長い時を幸せに過ごしたお父さんと継母は、とてもいい夫婦の見本になったそうです)

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「ママ横をむいてて」で映画デビューすると立て続けに映画に出演

こうして、「松竹」に入った小山さんは、1955年、20歳の時、「ママ横をむいてて」で映画デビューすると、同年、

「あこがれ」
「振袖剣法」
「新婚白書」
「太陽は日々新たなり」

と、立て続けに映画に出演し、

翌年の1956年にも、

「花ふたたび」
「駄々っ子社長」
「君は花の如く」
「ここに幸あり」※二部作
「青空剣法 弁天夜叉」

「松竹まつりスタア総動員 スタジオ超特急 女優誕生」※二部作
「角帽三羽烏」
「鶴八鶴次郎」
「「少年宮本武蔵」より 晴姿稚児の剣法」
「マリヤ観音 前・後篇」

「阪妻追善記念映画 京洛五人男」
「ここは静かなり」
「晴れた日に」
「君は花の如く」

と、14本もかけもちして出演したのだそうです。

「小山明子の出演ドラマ映画と著書を画像で!」に続く


「駄々っ子社長」より。小山さんと大木実さん。

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