彦根城の城下町にある大きな家で誕生し、幼少期は、裕福な家庭で育ったという、田原 総一朗(たはら そういちろう)さんは、幼い頃は身体が弱くひ弱な子供だったそうですが、やがて、元気で活発な子供に成長したといいます。

「田原総一朗の生い立ちは?父親は女性にモテるも家はかかあ天下だった!」からの続き

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実家は生糸商が傾き製網を生業とするようになっていた

幼い頃は、生糸商を営む家庭で、何不自由なく、すくすくと育ったという田原さんは、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」でも、

私が生まれた頃はまだ裕福だったかもしれない。鯉のぼりがあり、端午の節句の人形も飾られていた。

と、綴っているのですが、

やがて、生糸商は傾き、田原家は、製網(せいもう)を生業とするようになったそうです。

というのも、お母さんの実家である中島家が、「中島製網製作所」という名前の工場で紐(ひも)を作っていたそうですが、田原さんが幼い頃に、お母さんの両親(田原さんの祖父母)が他界したため、父方の祖母の田原志げさんがその工場を引き継ぎ、「田原製網製作所」として経営を始めたそうで、

生家の前にあった家を工場にし、6~7人の工員を使って紐作りを始めると、その後、お父さんの英次郎さんが引き継いだのだそうです。


塀の上を走れ 田原総一朗自伝

幼少期は病弱も・・・

さておき、田原さんは、幼い頃はとても身体が弱く、何度も肺炎にかかり、死にかけたこともあったそうですが、だからといって、家に閉じこもって過ごしていたわけではなかったそうで、

3歳くらいから、近所の年上の子供たちとよく遊ぶようになると、最初の頃は、いじめられ、かくれんぼをすると、ずっと鬼をさせられたりして、すぐに泣いて帰っていたそうですが、

そのうち、だんだんいじめられ方が上手になっていき、やがては、今度は、いじめる側にまわったそうで、いじめ方も上手になっていき、どこまでならいじめても大丈夫かという加減が分かり、相手にケガをさせることはなかったそうです。

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やがて幼稚園ではやんちゃ坊主に

また、6歳の時には、1年間、彦根市立の幼稚園に通っていたそうで、

(胸に湿布をしたまま幼稚園に通ったことが何度もあったそうです)

普段は、実家の「田原商店」に奉公に来ていた丁稚(でっち)に送り迎えをしてもらっていたそうですが、ある時、たまたま、一人で幼稚園に行ったことがあり、幼稚園に行く道すがら、知らない男から「おいで、おいで」と手招きされ、田原さんは、てっきり人さらいだと思い込み、泣きながら走って家に帰ったこともあったそうですが、

幼稚園にしばらく通ううち、体力もついて、すっかり元気になり、気がつくと、「五人組」と言われるやんちゃ坊主のうちの一人になったのだそうです。

「田原総一朗は幼稚園の時「清水の次郎長」の絵を描き先生に呆れられていた!」に続く

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