小学校に入学した年の暮れに太平洋戦争が始まると、当初は、まだ、絵を描くことを楽しむ余裕があったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、次第に、物資が不足してきて、食べ物も服も手に入らなくなったといいます。

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戦時中の食事は質素だった

田原さん一家は、家族全員で一つのテーブルを囲み、一緒に食事をしていたそうですが、夕食は、ご飯と味噌汁、煮物、おひたしといった、質素な食事で、おかずは3品もなく、一汁二菜(主食のご飯に魚などの主菜と野菜などの副菜、それに汁物という基本の食事)だったそうです。

また、朝食は、ご飯と味噌汁と前日の夕食の残り物と漬物だったそうで、それに、生卵をかき混ぜて、醤油をかけて食べていたそうですが、

生卵は、妹と2人で半分ずつだったそうで、どうしても一人目の方が多くなってしまい、このことで、年中、妹とケンカになっていたそうです。(牛乳も2人で半分ずつだったそうです)

小学校時代は外食が一番の楽しみだった

そんな中、お父さんが、時々、彦根にあった小さな百貨店の食堂に連れて行ってくれ、チキンライス、カレーライス、ハヤシライス、時には鰻(うな)丼を食べさせてくれたそうで、

小学校時代の田原さんの一番の楽しみは外食だったそうです。

戦争が長引くと次第に生活が困窮していった

ただ、その後、いよいよ、物資の不足が深刻になってくると、生活はさらに困窮するようになったそうで、田原さんが小学4年生の時には、米の配給が少なくなったため、お父さんがお母さんの着物を持って農家へ行き、お米と替えてもらったそうです。

とはいえ、農家は着物一枚でせいぜい、米一升か二升しか分けてくれなかったうえ、お米を持っているところを警察官に見つかると、逮捕されてしまったことから、お父さんが無事にお米を持って帰ってくると、家族みんなで喜んだそうです。

(お米を新聞紙の上に盛り上げて白米の山を作り、その中へ両手の指を差し入れたそうで、この時、田原さんは、最高の幸せを感じたそうで、お米に触れた指の何とも言えない感触と充実感は今でも忘れられないそうです)

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服は父親のおさがり、靴は自作の草履だった

ちなみに、この頃の食事は、お粥(かゆ)が主食で(お粥と言ってもお米だけでなく、大根や芋も混ぜてあったそうです)、白米のご飯はめったに食べることができなかったことから、お母さんの実家に、ご飯を食べに行くこともあったそうですが、最初は歓迎されたものの、2回目からは嫌がられたそうです。

また、服も手に入らなかったため、お父さんの着古しの学生服をお母さんが縫い直したものを着させられたほか、靴も売っていなかったため、同級生と一緒に農家へ行き、稲わらで草履を編むやり方を教えてもらい、自分で作った草履を履いて通学していたのだそうです。

「田原総一朗が戦時中に体験した今でも忘れられない出来事とは?」に続く

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