早稲田大学進学を希望し、昼間働いて、夜に大学に行くべく、交通公社に入社したという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、交通公社の研修では、劣等感を味わったといいます。

「田原総一朗は作家に憧れ早稲田大進学を希望も母親の反対に遭っていた!」からの続き

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上京するための夜行列車に母親は見送りに来なかった

交通公社の入社試験に合格した田原さんは、1953年1月末、交通公社で行われる研修に出席するために、上京することになったそうですが、まだ、新幹線がない時代だったため、翌朝に東京に到着する夜行列車で行くことにしたそうです。

(高校の卒業式にも出席せず、働き始めることになったそうです)

ただ、お母さんは、相変わらず怒っており、「親を見捨てるのか」とまで言ったそうで、東京へ出発する日も、見送りにも来てくれなかったそうです。

(田原さんとしては、毎月仕送りをするつもりだったため、見捨てるつもりは毛頭なかったそうですが、お母さんは、東京に行ったら仕送りなどできるはずがないと思い込んでいたそうです)

自責の念にかられていた

一方、お父さんは、米原駅まで送ってくれたものの、別れ際、「元気でな」と言ったぐらいで、ありきたりの会話しかなかったそうで、

田原さんは、やはり、「親を見捨てるんだ」という感覚になって自責の念にかられ、胸が締め付けられるような思いになったそうで、後ろめたさを引きずりながら、夜行列車に乗って、生まれ育った故郷の彦根を発ったのだそうです。

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交通公社の研修で劣等感を味わう

こうして、1953年1月末、交通公社の研修を受けるために上京した田原さんですが、翌2月と3月に研修を受けると、強烈な劣等感を味わったといいます。

というのも、同期入社でも、高卒組と大卒組では研修が別で、高卒は算盤(そろばん)が中心なのに対し、大卒は英語が中心。また、研修最後の旅行では、高卒は、はとバスで東京一周だったのに対し、大卒は、JALに乗っての北海道旅行だったほか、

仕事もまったく違っており、高卒は切符を切ったり売ったりするのが主な仕事なのに対し、大卒は海外渡航や外国人の旅行(進駐軍の兵士や家族の旅行)を担当していたそうで、

やっぱり企業はダメだ

と、思ったのだそうです。

「田原総一朗は早稲田大学に落ちたと思い込み聴講生を申し込もうとしていた!」に続く

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