「岩波映画製作所」で番組の構成をする中、日本テレビの15分番組「奥さま こんにちは」の構成のアルバイトも始めると、そこで、日本テレビのアナウンサー・村上節子さんと知り合い、意気投合したという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、その後、節子さんへの想いが止められなくなっていったといいます。

「田原総一朗は結婚後に村上節子アナと意気投合していた!」からの続き

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村上節子とはしばらく接点がなくなっていた

1960年、26歳の時、周囲の大反対の中、3歳年上の従姉妹・末子さんと結婚するも、その後、間もなく、日本テレビで「奥さま こんにちは」の構成のアルバイトをするようになると、日本テレビのアナウンサー・村上節子さんと知り合い、意気投合したという田原さんですが、

1963年に「岩波映画製作所」を退社して「東京12チャンネル」に入社し、「奥さま こんにちは」を降板すると、節子さんとはそれきりになっていたそうです。

ただ、1965年7月、田原さんが、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦。現在のロシア)の首都モスクワで開催される世界ドキュメンタリー会議に、日本の代表として行くことになり、

それを知った節子さんから、久しぶりに、

ソ連に行くんですって?

と、電話がかかってくると、

田原さんは、この時、胸の高まりを抑えることができなかったそうです。

(田原さんの親しい友人でフリーの構成作家の菅沼定憲さんが、節子さんには、「あなたにいちばん惚れているのは田原総一朗だ。ソ連に行く前に電話しろ」と言い、田原さんには、「村上節子が惚れているのは田原だ」と言っていたそうで、つまりは、菅沼さんが火をつけたのだそうです)

村上節子は約束の時間に現れなかった

そんな気持ちを抑えつつ、田原さんは、「じゃあ、お土産を買ってきますよ」と言ってソ連に行き、帰国後、しばらくしてから、お土産を渡そうと節子さんに思い切って電話をし、その日の夕方6時に新宿の「ラン」という喫茶店で会う約束をし、逸(はや)る気持ちを抑えて、節子さんを待っていたそうですが・・・

待てど暮せど、節子さんは来なかったそうです。

(この喫茶店は、仲間内のたまり場だったことから、その夜も友人が何人か来ており、友人の一人には、「いつまで待っているんだよ」と茶々を入れられ、その後、その友人が店を出て行き、しばらくしてまた戻ってきたそうですが、まだ一人で座っている田原さんを見て、「まだいるのかよ」と言われたそうです)

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村上節子が一番の理解者に

それでも、田原さんは帰らず、節子さんが本当に来るかどうか試してみようとずっと待っていると、夜9時頃になって、ようやく、節子さんがやってきて、久しぶりに節子さんと再会したそうで、

(この再会が、二人きりで会う最初のデートだったそうで、田原さんは一言も文句を言わなかったそうです)

それ以来、節子さんとは、しばしば、喫茶店で会って話をするようになったのだそうです。

ちなみに、その話というのは、お互いの生き方を確かめるための論争で、節子さんとは、男と女という違いを超えて、本音の話をすることができ、初めて、自分をぶつけられる人間に巡り合った気がしたそうで、

やがて、節子さんが自分を理解してくれていることが分かると、仕事で(ドキュメンタリー作品)、どこまでやれるか極限状態を追求するようになっていったそうで、

世間が理解してくれなくても、彼女が理解してくれれば、それでよい

と、思うようになったのだそうです。

「田原総一朗と村上節子はダブル不倫だった!」に続く

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