親友で落語家の立川談志さんから、7年もの間、俳優よりも話をする仕事をするよう説得され、最終的には出演のお膳立てまでしてもらったことから、毒蝮三太(どくまむし さんだゆう)さんは「笑点」に出演するようになったといいます。

「毒蝮三太夫と立川談志は親友!出会いは落語繋がりだった!」からの続き

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立川談志からしきりに落語家になるよう口説かれていた

落語つながりで立川談志さんと親交を持つようになった毒蝮さんですが、実は、談志さんには、1961年頃から、しきりに、

楽屋ではあんなに面白いのに、役者をしたら普通で終わっちゃう。それはもったいない。スタンダップコメディアンになれ

と、俳優よりも、話をする職業のほうが向いていると説得されていたそうで、

そのうち、寄席や余興に連れて行かれるようになり、さらには、師匠たちにも紹介され、いきなり、「10分しゃべれ」と言われたこともあり、

ついには、談志さんが立ち上げた「笑点」に座布団運びで出演してみないかと持ちかけられ、

役者やめて、もししゃべりの道で食べられなかったら、俺が生活の面倒を見てやる

と、まで言われたそうで、

そこで、毒蝮さんも、

こいつは本気なんだな、じゃあやってみるか、それが男としての仁義だ

と、談志さんの誘いを受けることにしたのだそうです。

(当時の談志さんは、飛ぶ鳥を落とすほどの人気で、落語界でも一目置かれる存在だったそうですが、その談志さんがそこまで言ってくれていることに対し、応えたいと思ったそうです)

立川談志の計らいで落語界に入ることができた

それでも、当初、毒蝮さんは、役者が排他的な演芸の世界に入っていけるのかと、不安な部分もあったそうですが、

(演芸の世界は演芸の世界で固まっており、役者は入って行きにくい世界だったそうです)

そのことについても、談志さんは、

お前は普段から小さん師匠も圓生師匠も志ん生師匠も楽屋に来た時、みんながおまえを喜んで迎えてくれたんだから、お前は違和感がないんだよ、お前はこの世界に来てもね、みんな嫌がらないから来いよって

と、安心させてくれたそうで、

“名伯楽”と称されていた談志さんの紹介だったからこそ、師匠たちも、

あの小ゑん(談志)が言うなら本当におもしろいやつなんじゃないの?

と、認めてくれたのだろうと毒蝮さんは語っています。

(実際、毒蝮さんは、寄席の人たちから温かく迎えられたそうです)

演芸番組「笑点」で改名していた

こうして、毒蝮さんは、「ウルトラマン」放映中の1967年、談志さんが司会を務める演芸番組「笑点」に、座布団運びとして出演することなったのですが・・・

そのうち、「ウルトラマン」で地球を救ったアラシ隊員が座布団運びをしていることに苦情の電話が殺到。

その後、談志さんの提案で、芸名をつけようということになり、それまでの「石井伊吉」(本名)から、現在の芸名「毒蝮三太夫」に改名します。

立川談志とともに「笑点」を降板していた

しかし、翌年の1969年には、「笑点」の視聴率が伸び悩み、それに伴って、談志さんと新レギュラーのメンバーとの関係が悪化し、談志さんは降板することに。

そこで、談志さんからは、

ウルトラセブンが終わって仕事がないんだし、「笑点」でそれなりの評価も得てきているんだから義理を果たさなくていい

と、言われたそうですが、

談志さんのいない「笑点」に残る気はさらさらなく、毒蝮さんも続いて降板したそうで、

しばらくしてから談志さんと会った時、「おめぇ、笑点降りたんだってな」と言われ、「うん、降りた」と答えたそうですが、談志さんは、何も言わなかったものの、ものすごく嬉しそうな顔をしていたそうです。

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今でも落語家だと思われている

そんなことから、せっかく「毒蝮三太夫」に改名したにもかかわらず、たった1年半で「笑点」を降板した毒蝮さんですが、

それでも、ラジオの現場などに行くと、今でも10人中8人は毒蝮さんを(俳優ではなく)落語家だと思っており、

毒蝮さんは、

俺は落語家じゃないよ。修業しているわけじゃないしね

毒蝮三太夫ってつけたのは落語家の立川談志だけど、俺は落語家じゃないんだよ

と、言うそうですが、

「何なんですか?」と聞かれ、「何なんだろうね?」と逆に聞き返すのだそうです(笑)

「毒蝮三太夫は立川談志を駅のホームから突き落とそうとしていた?」に続く

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