終戦後、朝鮮半島にいた日本人は引き揚げを余儀なくされたことから、財津一家もそれに従って日本へ引き揚げると、その後、兄弟の中で唯一、日本で誕生したという、財津和夫(ざいつ かずお)さんは、幼い頃、米軍ラジオから流れてくる音楽を聴くうちに、アメリカに憧れるようになったといいます。
「財津和夫の父親は朝鮮引揚後は養豚場⇒食堂を経営していた!」からの続き
少年時代は家が何度も立ち退きに遭っていた
終戦後、朝鮮半島から引き揚げを余儀なくされた財津一家は、福岡の親戚を頼って日本へ引き揚げると、お父さんの國平さんが、ゼロからやり直そうと、開拓農場の仕事を始め、やがては、農場の一角で養豚も始めるも、
1950年には、開拓農場内に競輪場ができたため、立ち退きの見返りに食堂の営業権を得て、そこで食堂をするようになり、お母さんのサイさんは猛勉強して調理師免許を取ったそうですが、
(度々、立ち退きに遭い、財津さんは、小学校だけで3回転校したそうです)
やがては、競輪場も閉鎖したことから、お母さんのサイさんは家電メーカーの住み込みの寮母、お父さんは用務員として働くようになったそうです。
少年時代に米軍のラジオ放送でアメリカンポップスを聴きアメリカに憧れるようになっていた
そんな中、財津さんは1948年に2月に、5人兄弟の末っ子として誕生したそうで、
(財津さんが誕生した時には、すでに一番上と二番目のお兄さんが幼くして他界していたそうです。また、財津さんは兄弟の中で、唯一、日本で誕生した子供だったそうです)
財津さんは、両親とともに、その寮の四畳半の部屋で、中学から高校卒業まで暮らしたそうですが、
(部屋が手狭だったため、お兄さん2人は家を出たそうです)
幼い頃は、両親が共働きだったことから、一人で過ごすことが多かったそうで、食堂のある競輪場では、いつもマーチが流れていたため、そのリズムを子守唄代わりに育ち、自然と音楽が好きになっていったそうです。
すると、やがて、近くにあった米軍のラジオ放送から流れてくる、ポール・アンカなどのアメリカンポップスを聴くうち、アメリカに憧れを持つようになり、子供心にも、東京に出て、音楽業界に入り、レコーディングなどに携わりたいと思うようになったのだそうです。
母親が音楽好きだった
また、財津さんのお母さんが音楽好きで、本当は、女学校を卒業後、音楽学校へ進学したかったところ、時代がそれを許さず、17歳で結婚させられてしまっていたそうで、
後に、テレビで、「ビートルズ」が紹介された時には、お母さんに、興奮気味に居間に呼ばれたそうで、財津さんの音楽への情熱は、お母さんの影響も多分に受けたものだったようです。
「財津和夫は当初「ビートルズ」は耳障りな音楽と感じていた!」に続く
(左より)お父さんの國平さん、お母さんのサイさん、財津さん。