少年時代、米軍のラジオ放送から流れてくるアメリカンポップスを聴くうち、アメリカに憧れを持つようになったという、財津和夫(ざいつ かずお)さんは、高校生の時には、「ビートルズ」に夢中になり、自らバンドを組んで「ビートルズ」の曲を演奏するようになったといいます。

「財津和夫は幼少期から米軍ラジオの音楽を聴きアメリカに憧れていた!」からの続き

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もともと「ビートルズ」には興味がなく耳障りな音と感じていた

財津さんは、1963年、福岡県立香椎高校に入学すると、ブラスバンド同好会に入り、アルトホルンを担当していたそうですが、

ある日のこと、(後に「チューリップ」で共に活動することになる)同じクラスの吉田彰さんから、「ビートルズ」主演の映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を観に行こうと誘われたそうで、

映画館は、女の子で満員だったことから、うまくいけば女の子に触るかもしれない、と不純な動機から、映画を観に行ったそうです(笑)

(財津さんは、米軍ラジオから「ビートルズ」の曲が流れてくるようになっても、興味がなく、むしろ、「耳障りな音」だと思っていたそうです)


ヤァ!ヤァ!ヤァ!

「ビートルズ」の映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を観て衝撃を受ける

しかし、いざ、映画館に観に行くと、スクリーンには、上品で端正な「ビートルズ」のメンバーが映し出され、メロディにファルセットを多用し、メインヴォーカルはいなくとも、メンバー4人がそれぞれ、リードを取って歌っていたそうで、

財津さんは、その歌声を聴いて衝撃を受け、映画が終わってからも、頭の中に「ビートルズ」の曲「シー・ラヴズ・ユー」が鳴り響いたそうで、と同時に、何の教育も受けていない、また、実績もない、突然、現れた若者たち(「ビートルズ」)が、大英帝国の由緒ある大人たちをキリキリ舞いさせている、そんな現実に、

もしかしたら自分にもできるのでは

と、本気で思い始めたのだそうです。

高校時代はバンドを組み「ビートルズ」の曲を演奏していた

こうして、その後、財津さんは、暇さえあれば吉田さんの家に行って、一緒に「ビートルズ」を聴き、

(吉田さんはレコードをたくさん持っていたそうです)

楽譜集から一生懸命コピーをし、バンドを組んで、予餞会(よせんかい)などで「ビートルズ」の曲を演奏したそうですが、これがまたウケたそうで、

財津さんは、ますます、「ビートルズ」にのめり込み、授業中も「ビートルズ」の楽譜に熱中するあまり、教室の後ろに立たされたこともあったそうです。

(この頃、財津さんは、作曲も始めていたそうです)

「ビートルズ」の日本公演を観に行っていた

そんな財津さんは、1966年には、東京の大学に入った女友達から、(ライオン歯磨きの懸賞で当たったという)「ビートルズ」の日本公演のチケットを譲り受け、観に行くことができたそうで、

(当時、財津さんは、高校を卒業するも大学には進学せず、表向き浪人生活を送ってブラブラしていたそうです)

財津さんは、

あのビートルズが生で聴ける。夢じゃないか

と、狂喜乱舞して、チケットを握りしめ、お兄さんに交通費を借り、博多から17時間かけて夜行列車に乗って武道館に駆けつけたそうです。

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「ビートルズ」の日本公演では涙を流す男の子を見て音楽の力に驚く

ただ、武道館に到着し、自分の席につくと、ほぼ最上段だったそうで、そこから見る「ビートルズ」は、豆粒大の大きさにしか見えなかったそうです。

それでも、隣の席にいた、デッキシューズにヨットパーカー姿の同年代の男の子が、

ポール!ジョージ!ジョン!リンゴ!

と、初めから終わりまで、泣きながら叫んでいたことに衝撃を受けたそうで、

財津さんは、著書「心の旅 永遠に」で、

東京はなんて、すごいんだ。こういう男の子がいるのだ。

と、またまた、感動が増してしまった。

そして、音楽で男に涙を流させるビートルズは、なんてすごいのだろう。音楽にはこんな力があるのだ、と興奮と感激で、ふたたび夜行列車に乗り込んだのだった。

ぼくもバンドをやりたい、と切実に思うようになった。

と、綴っています。

「財津和夫は高校卒業後はパチンコに夢中だった!」に続く


心の旅 永遠に

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