高校入学後、クラスメイトの吉田彰さんに誘われて「ビートルズ」主演の映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を観に行ったことがきっかけとなり、「ビートルズ」に憧れるようになると、以降、「ビートルズ」の楽譜集をコピーし、バンドを組んで音楽活動に熱中するようになったという、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、高校卒業後は、一転、パチンコに夢中になっていたといいます。
「財津和夫は当初「ビートルズ」は耳障りな音楽と感じていた!」からの続き
高校卒業後はパチンコに夢中だった
高校時代は、バンド活動に没頭していた財津さんですが、高校卒業後は、パチンコに入れ込み、一時は、大好きな音楽を忘れるほどだったといいます。
というのも、財津さんは、高校卒業後、同級生の多くが大学に進学する中、経済的な理由から大学進学をあきらめ、毎日、ブラブラしていたそうで、連日、暇で仕方なかったため、パチンコ通いをするようになったそうですが、
(ただ、体裁が悪かったため、周囲には浪人中と言っていたそうです)
なぜか、パチンコ玉を弾くと、勝利の大波が押し寄せてきて、(それも一度や二度ではなく)連戦連勝だったため、当然、元手を大きく上回るお金が手に入り、そのお金で、「ビートルズ」のレコードを買ったり、時には、優雅にタクシーで帰宅することもあったそうで、そんな日々を過ごすうち、パチンコ三昧の日々を過ごすのも悪くない、と思うようになってしまったのだそうです。
高校の同級生の女の子とばったり出会ったことがきっかけでパチンコを辞める
そんなある日のこと、いつものようにパチンコに行くと、その帰り道、高校の同級生だった女の子と街でばったり出会ったそうで、
その子が、財津さんの顔を見るなり、
財津くん、こんなところで何しようと?
と、聞いてきたことから、
財津さんは、バカ正直に、
パチンコからの帰り
と、答えたそうですが・・・
高校の同級生の女の子から叱咤され大学を受験していた
その子には、
そげなことして。みんな大学に進んだとに、あんたは行きたくないとね。とにかく大学だけは受験しなさいよ
と、叱られ、
財津さんが、
家に金がなくて、大学に行かせてもらえない
と、言い訳すると、
何を言うとんの。親というものはお金がなくても、子供が大学に合格したら学費くらいは何とか工面してくれるもんよ。それが親というもんたい
と、言われたそうで、
この同級生の女の子の叱咤(しった)がきっかけとなり、人が変わったように受験勉強に取り組むと、結果、西南学院大学に合格したそうで、
1967年には、西南学院大学に進学し、一足先に進学していた同級生らとバンド活動を再開して、再び、音楽活動に熱中するようになったのだそうです。
(ちなみに、受験料と入学金は、高校の同級生・吉田彰さんから借りたそうですが、吉田さんは、すでに現役で同じ大学に合格していたそうです)
社会性のある曲を歌うのではなく純粋に音楽を楽しみたいと思っていた
ちなみに、この頃、財津さんは、激しい学園闘争が繰り広げられた西南学院大学で、「ビートルズ」のようなノリで、ライブをしていたそうですが、
週に一度は、学友から、
みんなが反戦を叫んでいる時に音楽にうつつを抜かすなんて、何をやっているんだ!
と、怒声を浴びたそうです。
(当時は、ベトナム戦争が勃発し、大学のキャンパスでは、激しい学園闘争が繰り広げられた時代だったため、財津さんが通う西南学院大学でも、学生デモが激化し、授業が中止になるなど、大きな混乱が続いていたそうです)
というのも、この頃は、音楽バンドも学生運動の影響を受け、反戦メッセージ色の強い曲を作って歌うことが、ある種の流行のようになっていたそうで、
そんな中、財津さんたちのバンドは、社会性のある主義主張が好きではなかったため、ただ、「ビートルズ」のようにかっこ良く演奏したい、純粋に音楽を楽しみたいと思っていたからだったそうですが、
財津さんは、そのことについて、NHK「ザ・ヒューマン」でのインタビューをまとめた書籍「人生はひとつ でも一度じゃない」でのインタビューで、
当時は音楽をやっている連中でも、何か事があるとギターを角材に持ち替えて闘争の輪に加わるという時代でしたから。バリケードを築き、夜を明かして学生集会を決行するから来いと誘われて参加したこともあったんですけど、どうにも馴染めませんでした。
こちらに唾を飛ばしながらアジテーション(けしかけること)する連中を見ていたら、どうにも嫌になってしまって。 結局、ビートルズが何よりも好きだった。それだけだったんですよ
と、語っています。
「財津和夫は「チューリップ」の前に「フォーシンガーズ」で活動していた!」に続く