1972年、捨て身の覚悟で福岡から上京し、航空券代や生活費をすべて事務所から借金するほか、南青山の2DKの古い木造アパートでメンバー5人すし詰めになって共同生活を送るなど、ギリギリの生活の中で再デビューした、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、新生「チューリップ」としての、1枚目のシングル「魔法の黄色い靴」に引き続き、2枚目のシングル「一人の部屋」も鳴かず飛ばずだったといいます。
「財津和夫が若い頃は古びた木造2DKでメンバー5人共同生活をしていた!」からの続き
神田のヤマハのスタジオでは音楽のレベルの高さに驚いていた
財津さんたち5人は、毎日のように、神田にあったヤマハのスタジオまで通っていたそうですが、
(ギターとアンプを抱えて、地下鉄を移動していたそうですが、それまで地下鉄に乗ったことがなかったことから、何もかもが珍しく、苦にはならなかったそうです)
そのスタジオでは、東京の音楽シーンのレベルの高さにしばしば驚いたそうです。
というのも、福岡の音楽シーンでは、財津さんたちはかなりの人気を博していたため、テクニックにも、それなりに自信を持っていたそうですが、神田のスタジオで演奏している人たちは、その音楽性やテクニックが半端なく高かったそうで、とても敵わないと思ったのだそうです。
完璧を目指し張り詰めた空気の中で練習していた
ただ、だからと言って、今更引き返すわけにもいかず、劣等感は感じながらも、
いつか絶対にヒットする
という自信だけはあったそうで、
とにかく、成りあがりでも何でもいい、音楽と心中するつもりで、練習に打ちこんでうまくなろう、ヒット曲を出してやろう。
と、そんなことばかりつぶやきながら、
練習は、完璧を目指すあまり、お互いが認め合うというより、ささいなミスも許さないほど、批判を繰り返し、空気はピリピリと張り詰めた状態だったそうです。
2枚目のシングル「一人の部屋」もさっぱりだった
そんな中、新生「チューリップ」のファーストシングルとしてリリースした「魔法の黄色い靴」が、鳴かず飛ばずだったことから、
財津さんは、
君 僕の靴をすてて逃げて走っても ほらね 僕の靴は君をつれてくるよ
という歌詞が、聞き手に残らないのでは? メルヘンチックな曲調がまずかったのでは?と、
1972年9月20日にリリースした2枚目のシングル「一人の部屋」では、リアルで肉感的な男と女の心情を前面に押し出すのですが・・・
(音楽業界内での評判は良かったものの)売上はパッとしなかったそうで、さすがに、自信がぐらつき、焦りを感じ始めたそうです。
2枚目のシングル「一人の部屋」が売れなかった理由は?
ちなみに、財津さんは、この「一人の部屋」が売れなかった原因を、
サビが『つまらない つまらない/一人の部屋の中はもう本当につまらない』っていう歌詞なんです。これだけ『つまらない』という歌詞をリフレインすれば、誰だって次はどんな展開になるんだろうと期待しますよね。
ところが、歌はそこでおしまい。その後の展開が何もないんです。聞き手にすれば、何度『つまらない』と歌えば気がすむんだ、本当につまらないとそっぽを向いちゃいますよね。
それじゃ、出だしくらいはましなのかというと、こちらもつまらない。なにしろ、『ラララ いつになったら 僕のところへ来てくれるんだ/ラララ こんなに僕を眠れないほど夢中にさせといて』ですから。
と、分析しています。
「財津和夫が若い頃はチューリップで「心の旅」が大ヒット!」に続く