1971年秋、新生「チューリップ」を結成し、翌年1972年、ファーストシングル「魔法の黄色い靴」とセカンドシングル「一人の部屋」をリリースするも、鳴かず飛ばずだった、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、3枚目のシングル「心の旅」が大ヒットし、大ブレイクを果たします。

「財津和夫は新生「チューリップ」で2nd「一人の部屋」もさっぱりだった!」からの続き

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3枚目のシングル「心の旅」が大ヒット

新生「チューリップ」を結成するも、ファーストシングル「魔法の黄色い靴」に続き、2枚目のシングル「一人の部屋」も売れず、

周囲は、

君たち、もう次はないね。おとなしく博多に帰んなさい

という雰囲気になってしまったそうで、

2度も博多に逆戻りすることは、プロの道を完全に絶たれることを意味していたことから、財津さんは追い詰められたそうですが、

そんな中、1973年4月20日に、3枚目のシングル「心の旅」をリリースすると、発売直後のセールスは、相変わらずパッとしないも、

(初登場時のオリコンチャートは71位)

徐々に人気が出始めると、発売から5ヶ月後のオリコンシングルチャート(1973年9月10日付)では、なんと、1位を獲得。9月18日時点では87万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。


心の旅

(「心の旅」は、「チューリップ」最大のヒットとなり、唯一のオリコンチャート1位獲得シングルとなったそうで、その後、数多くのアーティストにカバーされ、現在も歌い継がれる名曲となっています)

「心の旅」は彼女について来てもらえない切ない心境を歌にしたものだった

実は、財津さんは、もう、どんな曲を書いていいのか分からなくなってしまい、あとは、「自分の体験を書くしかない」と思って書いたのが、この「心の旅」だったそうで、

財津さんが、新生「チューリップ」を結成し、再デビューが決まって上京する際、当時、付き合っていた女の子に、

東京についてきてくれないか

と、言うも、良い返事がもらえず、

(その彼女はすでに働いていたこともあり、財津さんよりもずっと精神年齢が高く、何歳で結婚して、何歳で子供を産んで、など人生設計をしっかり持っていたそうで、運良くデビューできただけで、将来の保証もなく、明日をもしれない、自分のような男についてきてくれるわけがないと納得したそうですが)

仕方なく、一人で上京した切ない心境を歌にしたものだったそうです。

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「心の旅」はシンプルでわかりやすいメロディを心がけて作曲していた

また、当時、財津さんは、「3枚目が売れなかったら福岡に帰す」とハッパをかけられており、ヒットが大命題だったことから、難解さを避け、わかりやすいメロディを最大限に心がけ、一般的にもっとも美しいといわれているメロディ「ドレミファソラシド」から、「ファ」を抜いて(つまり「ドレミソラシド」で)作曲したそうですが、

(シンプルで明快な「ビートルズ」の初期の作品と同じ姿勢での曲作りを意識したそうです)

結果、「心の旅」は、わかりやすいメロディでストレートに訴えつつも、強いインパクトを残し、大ヒットにつながったのだそうです。

「財津和夫は「心の旅」ではコーラス担当だった!その理由とは?」に続く

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