浪華商業高等学校(浪商)野球部の中島春雄監督にプレーを認められて編入試験を勧められると、無事試験に合格した、張本勲(はりもと いさお)さんは、(浪商は張本さんが編入する前に暴力事件を起こして1年間の対外試合禁止処分を受けていたことから)3年生での甲子園出場を目指し、練習に励んでいたそうですが、そんな中、巨人軍の水原茂監督から思いもよらない言葉をかけられたといいます。
「張本勲は兄のお陰で浪商に編入することができていた!」からの続き
浪商野球部の中島春雄監督が暴力事件の責任を取って辞任
お兄さんのバックアップのもと、あらたに浪華商業高等学校(浪商)で高校生活をスタートさせることができたという張本さんですが、編入にあたってお世話になった監督の中島春雄先生はというと、1ヶ月ほどで野球部を辞任することになってしまったそうです。
というのも、浪商野球部は、張本さんが転校してくる直前、上級生が下級生を制裁する暴力事件を起こしていたそうで、その責任を取る形で中島先生は辞任することになったのだそうです。
浪商では暴力事件により甲子園は3年生の春と夏しかチャンスがなかった
また、この暴力事件により、野球部は9月から1年間の対外試合禁止処分を受けていたそうで、張本さんは、既に2年の春と夏の甲子園への道が閉ざされていたそうですが、
3年生の春と夏がある。1年間でいい。その時に一度でも甲子園に出場できれば自分の力をアピールできるし、そうすればプロからも勧誘が来る
と、思い、一生懸命、練習に励んだのだそうです。
(当初200人いた新入部員は、厳しい練習と競争に耐えかね、夏には半分の100人しか残らなかったそうです)
浪商では高校2年生の時にはエースで4番
ちなみに、浪商では、見込みがありそうな1年生に3度だけスイングさせる、「(通称)3本バッティング」というものが行われたそうですが、
張本さんは、ここで打って認められればと、気合を入れて臨むと、見事、合格し(合格者は張本さんを含め15人)、2年生になると、主力チームのエースで4番を任されるようになったそうで、
同期の柿田正義さんは、張本さんの印象について、
第一印象は『大きいなあ』ということ。彼が打つと、ライトのフェンスを越えて、民家の屋根瓦が割れることも多かった。それを監視する、専門の部員が配置されたくらいですから(笑)
と、語っています。
高校2年生の時には巨人の水原茂監督から直々にスカウトされていた
そんな張本さんは、2年生の一学期の終わりのある日のこと、前監督の中島春雄先生と野球部の講演会の副会長から、学校近くの喫茶店に呼び出されたそうで、なんだろうと思いながら行ってみると、店の奥の席にソフト帽をかぶった男性が座っていたそうです。
(どこかで見たような気がしたそうです)
すると、中島先生から、
巨人軍の水原茂監督だ。ごあいさつしなさい
と、言われたそうで、張本さんが言われた通りあいさつをすると、
水原監督には、
どうだい、巨人に入らないか
と、まるで夢のような言葉をかけられたのだそうです。
水原監督から高校卒業まで待っていると言われ自信がわいていた
ただ、巨人軍に入るということは、高校を中退するという話だったことから、一人では決められず、早速、お兄さんに相談の手紙を書くと、
お兄さんはすぐに返事を書き送ってくれたそうですが、その内容はと言うと、
とてもありがたい話だがせめて高校だけは卒業してほしい。野球がだめでも高校を出ておけば就職の道はある。ワシも必死で働くから卒業まで頑張れ
と、いうものだったそうで、
(お兄さんの気持ちは痛いほど分かっていたため、落胆はなかったそうです)
張本さんは、中島先生にそのお兄さんからの手紙を見せたのだそうです。
すると、それからしばらくして、水原監督からの「立派なお兄さんだね。卒業まで待っている」という伝言を中島先生から聞いたそうで、
張本さんは、水原監督のこの言葉に、「自分の力が認められたんだ」と自信がわいたのだそうです。
「張本勲は高2のとき肩を痛めて投手から打者に転向していた!」に続く