韓国から帰国すると、プロ野球10球団の誘いの中から、「東映フライヤーズ」に入団した、張本勲(はりもと いさお)さんですが、キャンプでは思うようなバッティングが出来なかったそうで、そんな中、打撃コーチの松木謙治郎さんから、適切な指導を受け、結果が出るようになったといいます。
「張本勲が東映フライヤーズに入団したのは東京に憧れていたから!」からの続き
松木謙治郎打撃コーチによる右手の強化特訓を受けていた
松木謙治郎打撃コーチは、張本さんのバッティングを見るなり、
だめだ。おまえのバッティングは右手が弱い。左バッターは右手が命なんだ。
と、すぐに指摘したそうで、以来、右手の強化が始まったそうです。
それは、松木さんがひざをついた姿勢でボールをトスし、張本さんがネットに向かって右手だけでボールを打つ、という(いわゆるトスバッティング)、松木さんが考案した練習方法だったそうで、
ほぼ毎日、右手一本で500本前後は打っていたことから、最初の頃は、痛くて腕を上げることができず、歯磨きをすることもできないほどだったそうですが、
それでも、松木さんは「弱いから痛いんだ」と練習を休ませてくれなかったそうで、その言葉通り、毎日やっていると不思議と痛くなくなってきて、さらに打球が遠くへ飛ぶようになったのだそうです。
バッティングは右手が不自由だっため高校までほとんど左手一本で打っていた
実は、張本さんは、子供の頃に負った右手の大やけどの後遺症から、右手で物を強く握れず、バッティングでも、右手はバットを軽く握る程度で、ほとんど左手一本で打ち返していたそうですが、
それでも、高校時代には遠くて球を飛ばすことができていたことから、松木さんに聞いてみると、
松木さんには、
相手は高校生だし、球は遅いし、おまえは左手の握力が強いから左手一本でも打てたんだ。しかし今度は、それでメシを食っているプロのピッチャーが打たせまいと投げてくるんだから。しかも一番強い球を打つのにそんなステップじゃだめだ
と、言われたのだそうです。
右足のステップを小さくするため日常生活から右足を意識していた
そんな張本さんは、右足のステップを小さくして開かないようにするため、ご飯を食べている時、トイレに入る時、バスに乗る時など、どんな時でも右足を先に出すようにして矯正し、「その間は打てなくてもいい」とまで思い、徹底してやったそうで、
(矯正するのに、次のシーズンが始まる3月まで(5ヶ月)かかったそうです)
張本さんは、著書「もう一つの人生」で、
ベーブルース、ルー・ゲーリック、川上哲治さん、みんなステップが広くない。とくにベーブルースというのはあれだけ巨漢でも非常にステップが狭い。王貞治もそうです。私の足幅は26センチですが、その3つ半のステップです。そのくらいにしないと遠くに強い打球は打てません。
相撲取りでも、いい立会の踏み込みは狭い。立った瞬間強く正確に当たろうと思ったら、ステップを小さくしたほうがいい。猫も高いところから降りたらすっとかまえる。敵の攻撃やなんかあった時に対応する動作と同じです。バッターが次の動作にスムーズに移行できるようにすることが大事なのです。
そのポイントがステップの幅です。ステップして球を見逃して、すぐキャッチャーを振り返ってもとに戻れるのはいいバッターです。今そういうバッターは少なくなりました。
バッティングは数学と一緒だと思います。バッティング学と言ってもいい。問題をなぜ、どうして、どうしたらと追究するからです。これは学問の原点だそうです。だから難しい。バッティングというものに正解はあるのか、勉強することばかりです。
そのなかで一番大事なのは自分に合った技術の習得です。その点、われわれバッターは技術屋ですから、打ち方が自分に合っていないとだめです。私は、打つ時にバットを少し寝かせます。それが私の体に合っているから。これは、小さい時から身についたものですから、私のバッティングのまねはなかなかできません。
松木さんはそれをしっかり見極めて教えてくれました。努力、自己管理、よき指導者、これは野球選手として成功する条件です。努力と自己管理は、自分がしっかりとしていればなんとかなりますが、良き指導者に巡り会えるかどうかは、運、不運があります。
私が、プロ野球の世界でひとかどの選手になれたのも、はじめに悪い癖を徹底して直してくれた松木さんのおかげでした。
と、綴っています。
打撃コーチの松木謙治郎は張本勲を中距離打者に育てようとしていた
ちなみに、松木さんによると、張本さんには、長距離打者としてではなく、打率を残せる中距離打者として育てる方針をとっていたそうですが、
張本さんは、幼い頃の大やけどの後遺症で右手がほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングだったことから、高めの直球しか打てなかったそうで、右手の強化や打撃フォームの立ち位置の細かい修正を行ったのだそうです。
(この時、バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法となり、右へ左へとボールを打ち分けることができるようになったのだそうです)
また、当初は、張本さんの長身と風貌から一塁手として育てる予定だったそうですが、打撃練習の際に、右手のやけどのことを知り、即日、外野手に回したのだそうです。
(張本さんは、高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習はかなりきつかったそうです)
「張本勲はルーキーの年から4番に起用され新人王を獲っていた!」に続く