速球投手でありながら制球力も抜群で、4度のシーズン20勝以上、6年連続リーグ最多奪三振を記録するなど、最終的には、206勝158敗193セーブ2987奪三振という素晴らしい成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、高校1年生のときは、野球経験のない素人の監督のもと、ひたすら、ストライクゾーンの真ん中に構えたミットをめがけて投げていたそうで、この時はまだノーコンだったそうです。
「江夏豊は中学のとき報徳学院と浪商のセレクション合格も断っていた!」からの続き
硬式球の気持ち良さから野球にハマっていった
大阪学院に入学することに決めた江夏さんは、正式に入学する前の3月、明星高校との練習試合で投げさせてもらい、3イニングで3点取られたそうですが、
この時、初めて硬式球を握ったそうで、投球がピシーッとキャッチャーミットに収まった時の快感はこのうえなく、本革のボールがバットと衝突し、カチーンと音がしてどこまでも飛んでいく感じは、打たれても気持ちが良かったそうです。
(中学まで使っていた軟式球は、打っても投げてもぺちゃーっという感じだったそうで、正直、それまで野球がそれほど好きではなく、流れでやっていたに過ぎなかったそうですが、硬式野球という、軟式と同じ野球とは思えない、別の世界があることを知り、すっかりハマったのだそうです)
大阪学院は野球部の強化に熱心ではなく技術的なことは何も教わったことがなかった
とはいえ、大阪学院は、野球部の強化にそれほど熱心ではなかったことから、グラウンドは、月水金が野球部、火木土がサッカー部と、日替わりで使い分けていたほか、左翼が70~80メートル、右翼が60メートルほどと狭く、
監督も、塩釜強先生(愛称はガマさん)という、野球経験のない素人だったそうで、
野球は根性や。ピッチャーと一対一のサシでケンカするつもりでやってこいや
と言われるだけで、技術を教わったことは一度もなかったそうです。
(塩釜先生は、鹿児島県・種子島出身の豪快な人だったそうです)
ノーコンながら球はめっぽう速かった
そのため、江夏さんは、けん制、バント処理、三塁や本塁のベースカバーなど、全く出来ないまま、投げ続けていたほか、
球は速かったことから、直球だけで三振が取れたものの、ノーコンで、ストライクゾーンの真ん中に構えたミットをめがけて投げるだけで、手からボールが離れると行き先はボール任せ、という感じだったそうです。
(いつも独り相撲だったことから、仲間からは、よく、「みんなで野球をやろうや」と言われたそうで、「3イニングで9四球ながら9奪三振で無失点」という珍記録も作ったそうです)
野球の技術は本屋で立ち読みして独学していた
ちなみに、当時の高校野球の投手の練習メニューは、ひたすら投げ込んで、あとは走るだけというものだったそうで、
江夏さんは、監督が技術を教えてくれないことから、帰り道に、梅田の旭屋書店で、野球の技術書を立ち読みして勉強したそうですが、
江夏さんは、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生」で、
当時の大阪の高校球界は私学6強といわれ、浪商、PL学園、大鉄、北陽、明星、興国が強かった。その壁は厚く、大阪学院にとって甲子園は近くて遠い場所だった。
だからこそ、熱くなれそうな気がした。報徳学園や浪商などの強豪にないものが、ここにはあった。 プロ野球の世界に入ってからも、弱い球団で巨人など強い者を倒すことを生きがいとした。たまたま阪神に入ったからそうなったわけではなく、高校時代から そういう性分だったのかもしれない。
と、綴っており、
そんな環境だったからこそ、力を発揮できたのだそうです。
「江夏豊は高1からエースで活躍し大阪の高校球界で有名だった!」に続く