1973年、マジック1が出て、今日の試合か明日の試合いずれかに勝てば優勝という時に、阪神球団から、「優勝はカネがかかるから負けろ」「金田(正泰)監督も了解している」という、耳を疑う指示を受けたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、同年、シーズン終了後の11月には、「金田(正泰)監督の下ではプレーができない」と表明するのですが、実は、シーズンが始まる前から、金田監督の姿勢(人間性)にキレていたといいます。
「江夏豊は優勝目前で阪神球団から中日に負けるよう指示されていた!」からの続き
金田正泰監督と確執
江夏さんは、1973年のシーズン終了後の11月、当時、阪神の監督を務めていた金田正泰監督に対する不満から、「金田監督の下ではプレーができない」と表明しているのですが、
金田監督も、11月23日に行われた阪神のファン感謝デー終了後、「江夏を抱えてのチーム作りに自信がない」と辞意を表明したそうで、
戸沢一隆球団社長が、両者の意見をそれぞれ聞く形で収拾に乗り出し、結果、金田監督は続投、江夏さんも監督に従うことでチームに残ることになったそうですが、確執は解消されることはなかったそうです。
もともと金田正泰監督とは「豊」「オジキ」と呼び合う仲だった
実は、江夏さんと金田監督はもともと仲が良かったそうで、金田監督は、1959年に阪神の監督に就任し、1961年に阪神を退団すると、1972年には、11年ぶりにヘッドコーチとして阪神に復帰しているのですが、
その時には、江夏さんを実の息子のようにかわいがって、「豊」と呼び、江夏さんも、金田さんを「オジキ」と呼ぶほど、仲が良かったのだそうです。
(金田さんの長男の名前も、偶然ながら、江夏さんと同じ「豊」だったそうです)
金田正泰監督から頼まれ永平寺での修行に同行するも・・・
しかし、1973年のオフの1月15日~19日のこと、金田さんから、
おい豊、俺は永平寺に行ったことがないから、(修行に)付き合ってくれ
と、言われ、
江夏さんは、お寺の修行などにまったく興味がなく、行きたくなかったそうですが、仕方なくついて行くと・・・
金田正泰監督が寺でサボっているとろを見てキレる
永平寺での修行は厳しく、厳しい寒さにもかかわらず、朝4時半に起きて、足袋(たび)も履かずに、1日10~11時間ほど本殿で座禅を組まされ、
(座禅を組む時は、足袋(たび)を履いてはいけないという決まりがあったうえ、座禅も、両足を組む「結跏趺坐(けっかふざ)」と決まっていたそうですが、江夏さんは特別に許してもらい、片足をもう片方の足のももの上に組んで座る「半跏趺坐(はんかふざ)」にしてもらったそうです。ただ、それでも辛かったそうです)
座禅の合間には、部屋、廊下、トイレの掃除もあったそうですが、
金田監督はというと、
年寄りだから
と、言って、どっかと座り、(禁煙の中)たばこをふかしながら見ているだけだったそうで、
江夏さんは、そんな金田監督の姿勢(人間性)に、すっかりキレ、帰ってからは口も聞かなくなったのだそうです。
「江夏豊は鈴木皖武による金田正泰監督殴打事件をセッティングしていた?」に続く
1972年、通算100勝をあげた江夏さん(右)を迎える、当時ヘッドコーチだった金田正泰さん(左)。