1967年に阪神タイガースに入団して以来、6年連続最多奪三振王に輝くほか、数々の記録を打ち立て、阪神のエースとして活躍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、1976年には、まさかの「トレード」を通告されます。
「江夏豊は権藤正利による金田正泰監督殴打事件をセッティングしていた?」からの続き
肘がしびれて長いイニングを投げることが困難になっていた
1967年に入団して以来、ずっと活躍してきた江夏さんですが、1974年頃には、100球を超えると、必ず右肘が痺れてきて、長いイニングを投げることが困難になったそうで、痛めた肩や肘をだましだまし、投球を続けていたそうですが、
1975年には、ついに限界を迎え、球威は衰え、制球と駆け引きでしのぐようになったそうです。
(1974年は12勝14敗、1975年は12勝12敗だったそうです)
契約交渉の呼び出しがないまま報道でトレード話を知る
すると、1975年のオフは、いつまでたっても球団から契約交渉の呼び出しがなく、それどころか、下交渉(事前交渉)の連絡さえないまま、時が過ぎていったそうで、
そんな中、同年12月24日、日刊スポーツが「阪神が南海との間で江夏と江本孟紀を含む複数トレードが成立する見込みである」と報道。
そこで、江夏さんは、球団事務所を訪れ、球団社長の長田睦夫さんに、報道の真偽を確かめると、
長田さんには、
君をトレードする気はない
と、言われたそうですが・・・
「阪神に溶け込む意欲がない」という理由でトレードを通告されていた
年が明けた1976年1月19日には、球団に呼ばれ、
長田さんから、
これまでの話し合いの中で、阪神のためにどうしても頑張りたいという前向きの姿勢が見られなかった。阪神に100%溶け込んでやるという意欲のない選手と球団は契約しない
と、「トレード」を告げられたというのです。
トレードを通告された直後の江夏さん(1976年1月19日)
(移籍先は告げられなかったそうですが、1975年12月から、阪神と南海の間で、江夏さん、江本孟紀さん、島野育夫さんを柱にした複数トレードの交渉が非公式で進められていたようで、ほとんどの新聞社が「江夏、南海へ」と報じていたそうです)
記者会見では寂しさ、悔しさ、落胆などを滲ませるも、最終的にはトレードを受け入れる
そんな江夏さんは、この日、長田さんと2時間近い話し合いをしたそうですが、「考えさせてほしい」と、すぐには了承せずに家に帰ったそうで、
記者会見では、寂しさ、悔しさ、落胆が入り混じった表情で、
トレードを通告されました。ほんまです。これまでのいきさつから〝ひょっとしたら〟と思ってはいたが・・・。何のために9年間やってきたか。きざな言い方をすれば、オレの青春を過ごしてきたところはタイガースや
と、球団に対し不満をあらわに。
ただ、1月26日には、大阪・梅田の球団事務所に長田さんを訪ね、
心機一転、新天地で頑張ります
と、トレードを受け入れる旨伝えると、
阪神球団は、即日、阪神の江夏さん、望月充外野手と、南海の江本孟紀投手、島野育夫外野手、長谷川勉投手、池内豊投手の2対4の交換トレードが正式に成立したことを発表したのでした。
南海への移籍を承諾し、会見を開く江夏さん(右)