1984年、監督、コーチ、主力が参加する朝食会で何気なく言った言葉が、広岡達朗監督の気分を害し、いよいよペナントレースの山場という時に二軍に落とされると、それっきり一軍に呼ばれなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、前年まで5年連続セーブ王だったにもかかわらず、この年限りで引退してしまいます。
「江夏豊は西武では広岡達朗監督に嫌われ二軍に落とされていた!」からの続き
最初から一軍復帰の見込みなどなかった
1984年、広岡達朗監督から嫌われ、(建前上は体調不良を理由に)二軍調整を命じられた江夏さんは、当初は、岡田悦哉二軍監督と和田博実二軍打撃コーチから「我慢しろよ」となぐさめられ、一軍復帰のためには、二軍戦で投げなくては、とも言われたそうですが、
その後、一軍からは、再登録の打診すら1度もなく、シーズンも終わりに近づいた頃には、岡田監督に、「お前は可哀相な男だ。よっぽど広岡に嫌われているんだな」と、同情されたそうです。
(主力級の選手が二軍落ちした場合、普通は10日から2週間に一度、調子はどうかと一軍から聞かれるそうですが、江夏さんのことは一度も聞かれなかったそうで、最初から一軍復帰の見込みなどなかったのだそうです)
最後に二軍のシート打撃で納得のいく球を投げ吹っ切っていた
そんな江夏さんは、最後に一度だけ投げたいと志願して、二軍のシート打撃に登板すると、自分でも惚れ惚れするような球が投げられたそうで、西武の若手相手に5イニング投げ、どん詰まりのセンター前ヒット1本に抑えたそうですが、これで、吹っ切れたそうで、
まっとうな根拠もなく、監督の好みで一軍に上がれないプロ野球に何の魅力も感じなくなり、11月12日現役引退を発表したのでした。
(江夏さんがプロ入りした頃は、個人が主体で、村山実さんや山内一弘さんら看板選手がでんと構えていて、監督は何も言わなかったそうで、すっかり様変わりしたプロ野球界には、自分の居場所はないと思ったのだそうです)
1000試合登板まであと171、200セーブまであと9、3000奪三振まで13だった
ちなみに、江夏さんは、著書「燃えよ左腕: 江夏豊という人生」で、
現役最後の夢は1000試合登板だった。当時の日本記録は米田哲也さん(阪急)の949試合だった(2017年に中日・岩瀬仁紀が954に更新)。
自分がこだわった個人記録は勝ち星でも、奪三振でもなく、この最多登板記録だった。日本ハム時代までの通算登板は809試合。あと4、5年やれば行けるはずで、それを励みに投げていた。
と、綴っているのですが、
そのほかにも、NPB史上初の通算200セーブもあと「9」、通算3000奪三振もあと「13」と目前で、いずれも、1軍に復帰すれば、シーズン中に十分達成できる中での引退となってしまったのでした。
(実際、江夏さんは、前年まで、5年連続最多セーブに輝いていました)
「江夏豊は西武を自由契約後ブリュワーズとマイナー契約を結んでいた!」に続く
広岡達朗監督(左)と江夏さん(右)