阪神タイガース、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと、5球団を渡り歩き、829試合登板、206勝158敗193セーブ、2987奪三振、防御率2.49という、素晴らしい成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、どの球団からも、引退試合(セレモニー)はしてもらえなかったといいます。ただ、そんな中、仲間たちが手作りの温かい引退試合をしてくれたといいます。

「江夏豊は西武を自由契約後ブリュワーズとマイナー契約を結んでいた!」からの続き

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西武には引退試合(セレモニー)をしてもらえなかった

実は、1984年には、阪神時代のチームメートで、江夏さん同様、西武に移籍してきた田淵幸一さんも、この年限りで現役を引退しているのですが、田淵さんが、翌春のオープン戦に西武球団主催で盛大なセレモニーが行われたのに対し、江夏さんは引退試合をしてもらえませんでした。

この仕打ちに対し、スポーツ誌「Number」の初代編集長で、当時は文藝春秋の編集長だった岡崎満義さんらが、「一時代を築いた人間に、あまりに失礼じゃないか!」と、江夏さんの引退セレモニーを行おうと企画したそうです。

(スポーツ誌「Number」の創刊号には、あの「江夏の21球」が特集記事として掲載されていました)

甲子園も後楽園球場も使用を断られていた

しかし、岡崎さんらが、江夏さんの思い出がたくさん詰まった、ゆかりのある球団(阪神など)に球場(甲子園など)を貸してもらえないか頼むも、ことごとく断られたといいます。

そこで、岡崎さんらが、この状況を、メジャーに挑戦するべくミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結びアメリカから帰ってきたばかりの江夏さんに伝えると、

江夏さんは、

分かった。それなら草野球の球場でもええわ。それの方が案外、ワシらしい引退試合になるかもしらん。やってくれるというありがたい人がいるかぎり、球場はどこでもかまわんと思う

と、言ったそうで、

やむなく、引退試合は、江夏さんとは何のゆかりもなく、ただの一度も訪れたことのない、東京の西の方にある多摩市営一本杉球場での開催になったのだそうです。

(多摩市営一本杉球場は、せいぜい高校野球の予選で使われる程度の球場だったそうです)

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一本杉球場には収容人数いっぱいの約1万6000人の観衆が集まった

それでも、1985年1月19日、東京都多摩市の市営一本杉球場で江夏さんの引退試合「たったひとりの引退式」が行われると、収容人数いっぱいの約1万6000人のファンが詰めかけたそうで、

地元の少年野球チームの、「多摩ファイターズ」と「多摩市野球スポーツ少年団」の試合という形で始まり、2回の表、突然、マイクを持ったビートたけしさんが「多摩ファイターズ」の“臨時”監督として登場し、

ピッチャー交代、江夏豊!

と、言うと、

観客が一斉に、「江夏! 江夏!」と大合唱。

そこで、(現役最後の西武のユニフォームではなく)阪神時代のユニフォーム「背番号28」を着た江夏さんが、バックネット裏の扉から出てくると、1万6000人の観衆から大歓声が上がったのでした。

「江夏豊の引退試合は球団の垣根を超えたものだった!」に続く


主催「Number」特別協力「名球会」で行われた江夏さんの引退試合。

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