1973年、シーズン終了間際の10月9日の夜、川上哲治監督から、現役を引退して監督になるよう勧告されるも、頼み込んでもう1年現役を続行した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1974年10月14日には、ついに現役を引退し、翌月の11月21日には、巨人の監督に就任するのですが・・・
「長嶋茂雄の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」からの続き
現役引退後すぐ監督にはなりたくなかった
長嶋さんは、1974年10月14日に現役を引退すると、翌月の11月21日には、球団からの強い要請に折れ、川上哲治監督の退任と同時に巨人の監督に就任しているのですが、
実は、長嶋さんは、現役を引退した後、すぐに監督にはなりたくなかったそうで、著書「野球は人生そのものだ」で、
本音を言えば、二、三年くらいコーチあるいはネット裏に行ってちょっと渇き切った野球漬けの体をもう一回リフレッシュしたかった
と、当時の心境を綴っています。
監督就任1年目は球団史上初となる最下位
それでも、長嶋さんは、東京・田園調布の自宅に二宮金次郎像を建て、指導者としての勉強に励んだそうですが・・・
監督就任1年目の1975年は、開幕直後から敗戦が続き、一度も最下位から浮上できないまま、10月10日には球団史上初となる最下位が決定し、屈辱のシーズンとなってしまいます。
(47勝76敗7分けで、5位大洋に5.5ゲーム差、優勝した広島とは27ゲーム差もあったそうです)
最下位の最大の原因は自身の引退だった
ちなみに、最下位になった原因ですが、何よりも、チームの柱だった長嶋さん自身が抜けたことが大きく、その穴埋めをするため、現役大リーガーのデーブ・ジョンソンを獲得するも、ジョンソン選手はもともと二塁手が本職だったこともあってか、打率1割9分7厘、13本塁打、38打点に終わっていたほか、
(巨人はそれまで「純粋主義」で、非日系外国人選手はいなかったのですが、戦後初めて獲得した非日系外国人選手がデーブ・ジョンソン選手でした)
長嶋さんが現役時代、「ON」として共に活躍した王貞治さん(前年まで2年連続三冠王)も、同年のオープン戦終盤に足を故障して大きく出遅れていたうえに、長嶋さんが抜けたことで、他球団からのマークが集中して不振となっていました。
(この年、王さんは、打率2割8分5厘、33本塁打、96打点の成績で、14年連続本塁打王は阪神の田淵幸一さんに止められたものの、打点王は獲得しており、通常の打者なら好成績なのですが、限界説までささやかれています)
また、V9で活躍した、森昌彦さん、黒江透修さんらも、前年の1974年に引退しており、大きく戦力ダウンしていたのでした。
「長嶋茂雄の巨人監督1年目は選手から反発されていた!」に続く