巨人軍監督に就任すると、川上哲治前監督の意向を完全に無視し、独自の「クリーン・ベースボール」なる政策を打ち出した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、投手起用においても、若手有望株だった新浦寿夫投手をどれほど打たれようとも試合で使い続けたといいます。
「長嶋茂雄は川上哲治前監督の意向を全て無視していた!」からの続き
若手投手・新浦寿夫を積極的に育成していた
1974年、現役を引退して、すぐに監督に就任した長嶋さんは、川上哲治前監督から勧められていた人事を全て無視した、コーチングスタッフを発表すると、
投手起用においても、それまでエースだった堀内恒夫投手が、5回以降に崩れることが増えていたことから、現役時代から「こいつは絶対に大化けする」と才能を高く買っていた新浦寿夫投手の育成に乗り出したそうです。
若手投手・新浦寿夫をファンのヤジから守るため三塁のベースコーチに立っていた
ただ、新浦さんは、ブルペンでは素晴らしい速球を投げるものの、マウンドに行くと、制球が悪く、力も半減したことから、登板する度に打たれたそうで、ファンからは、新浦さんへの交代を告げる長嶋さんに、「オイ、また新浦かよ。いい加減にしろ!」と、ブーイングが飛んだそうです。
それでも、長嶋さんは、新浦さんがどれほど打たれようとも平気で使い続けたことから、当の新浦さんは、これに耐えられず、試合後、浴室で、「もう投げられません」と、泣きながら長嶋さんに訴えたそうですが、
長嶋さんは、
いくら打たれたっていい。ファンのヤジがつらいなら俺がコーチスボックスに入って受けてやる
と、言ったそうで、
(実際に、三塁のベースコーチに立ったそうです)
新浦さんは、
早くファームに落としてくれ、と思ったことがあります。野球の怖さが分かった1年でした
と、語っています。
新浦寿夫が大黒柱に成長
そんな新浦さんは、翌1976年には、ほかの弱体投手陣たちと共に、巻き返しを懸ける意味で、最下位に掛けて「さい会(さいかい)」を結成すると、みんなで願掛けをしようと、1月1日からタバコをやめたそうで、
(当時は、プロ野球選手でも皆タバコを吸っていたそうです)
長嶋さんにも、「禁煙しました」と言ったそうですが、
長嶋さんはというと、
全部、(巨人が最下位に沈んだのは)俺の責任なんだから、そんなことする必要はない。ケツの穴からヤニが出るまで吸え!
と、怒ったそうで、
結果、新浦さんは、奮起し、1976年から4年連続2ケタ勝利し、チームの大黒柱へと成長したのでした。
「長嶋茂雄は最下位から2年連続リーグ優勝もその後低迷していた!」に続く