1976年と1977年にはリーグ優勝を果たすも、日本一にはなれず、1978年と1979年には再び低迷し、苦悩していたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、チームが強くなるためなら、監督の自分はどれほど憎まれてもいいと、不甲斐ない登板をした投手に手を上げるほか、伊東スタジアムでは、異例の秋季キャンプを行ったといいます。

「長嶋茂雄は最下位から2年連続リーグ優勝もその後低迷していた!」からの続き

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西本聖と角三男に20発に及ぶ平手打ちをしていた

長嶋さんは、1979年8月1日の広島戦の後、不甲斐ない投球で勝ち試合をふいにしたという理由で、西本聖投手と角三男(現・角盈男)投手を宿舎のホテルの自室に呼び出し、20発にも及ぶ平手打ちをしたそうで、

長嶋さんは、叩かれながら、すごい形相で睨み返す二人に、

いくらでも俺を憎めばいい。悔しかったら死に物狂いで練習しろ

と、涙を流しながら、奮起を促したそうです。

若手を鍛え上げるために伊東スタジアムで異例のキャンプを行っていた

そんな長嶋さんは、

チームを強くするためには、監督の自分が、選手にどれだけ憎まれてもいい・・・

という覚悟を表すかのように、

1979年シーズン終了後には、かつて、藤本定義監督がバラバラだった巨人の選手を猛練習で一つにまとめようと、群馬県館林市の茂林寺球場で行ったキャンプにならい、

茂林寺しかない。いままでのような多摩川でやっている秋季練習ではダメ。秋でもキャンプを張り、徹底的に鍛えるんだ

と、平均年齢23.7歳の若手18人(江川卓さん・西本聖さん・角三男さん・藤城和明さん・鹿取義隆さん・赤嶺賢勇さん・山倉和博さん・笠間雄二さん・中畑清さん・淡口憲治さん・篠塚利夫さん・松本匡史さん・平田薫さん・山本功児さん・中司得三さん・河埜和正さん・中井康之さん・二宮至さん)を伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させて、キャンプを行います。

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「地獄の伊東キャンプ」では選手たちは血反吐を吐いていた

すると、このキャンプでは、江川卓さんと西本聖さんは一日300球も投げ込み、外野とスイッチヒッターに転向した松本匡史さんは、打撃も守備も思うように行かず泣きながらバットを振り、中畑清さんは1000球近いノックを受け、「コノヤロー」と怒鳴りながら、キャッチャーではなく長嶋さんにボールを投げ返すなど、あまりの猛練習に選手たちは血ヘドを吐くほどだったそうで、後に、「地獄の伊東キャンプ」と呼ばれるのですが、

キャンプに参加した篠塚和典さんは、

王さんは選手としてもう晩年で、他のV9戦士も次々に辞めていく、世代交代の時期でした。そんな状況の中、ミスターが直接『お前たちがこの先10年、15年のジャイアンツを担っていくんだ』と話してくれた。もちろん練習は苛烈を極めましたが、気合が入りました

と、語っています。

「長嶋茂雄は川上哲治に監督を解任されていた?」に続く

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