1979年秋、若手を徹底的に鍛えようと、伊東スタジアムで熾烈を極めた猛特訓(地獄の伊東キャンプ)を行った、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、次第に、V9時代の川上哲治前監督を懐かしむ声が高まり、1980年にはついに監督を解任されます。

「長嶋茂雄は異例の秋季(地獄の伊東)キャンプを行っていた!」からの続き

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ヘッドコーチに招いた青田昇が取材中に記者に暴言を吐き辞任

長嶋さんは、1980年1月には、張本勲さんをロッテオリオンズに放出すると、

(張本さん側の意向によるものだったそうです)

その代わりに、ニューヨーク・ヤンキースでプレーした、ロイ・ホワイトを獲得するほか、スタッフでは、長嶋さんの良き理解者で、伊東キャンプでも、(長嶋さんの依頼により)臨時コーチを務めた、青田昇さんをヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を図るのですが・・・

青田さんが週刊誌「サンデー毎日」の取材を受けた際、1969~1971年の「黒い霧事件」(野球賭博)の関与を疑われ、記者に対し、「ピンボケ」「勉強不足」「バカヤロー!!」などと罵倒したことから、

その数日後、その言葉が週刊誌に掲載され、スポーツ新聞でも大きく取り上げられるなど、問題が大きくなったそうで、セ・リーグが調査に乗り出した結果、青田さんに処分が下され、1月18日、青田さんはコーチを辞任となってしまいます。

長嶋派のコーチ11人がフロントにより解任されていた

また、この頃には、栄光のV9時代を懐かしんだマスコミやファンの間で、前監督の川上哲治待望論が徐々に出るようになり、川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋さんのチーム作りに干渉するようになったそうで、

1975年から1979年の間には、フロントにより、長嶋派の11人のコーチ(福田昌久さん・須藤豊さん・関根潤三さん・宮田征典さん・淡河弘さん・中村稔さん・瀧安治さん・黒江透修さん・国松彰さん・町田行彦さん・鈴木章介さん)が解任されます。

(ちなみに、黒江さんは、1978年に退任した際、長嶋さんから「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ。申し訳ないが辞めてくれ」と言われ、「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですか」と、涙ながらに訴えたといいます)

川上哲治に監督を解任されていた?

そんな中、1980年8月、オールスター休みの際、巨人軍OB会親睦ゴルフが開催され、その夜、週刊誌「文春」の企画で、川上さんが、有力OBたち(青田昇さん・牧野茂さん・藤田元司さん・国松彰さんら)を集めて座談会を開くと、「長嶋では勝てない」という大合唱があったそうで、

オフレコという条件で、長嶋さんの後継監督について話が始まったそうですが・・・

川上さんが言った、

藤田(元司)、次はお前が監督をやれ

という言葉が、後日、記事に掲載されてしまいます。

すると、川上さんは、

酒も入っていた席だから出た冗談で、ああいう席で本気で言うわけがないだろう

と、釈明したのですが、

長嶋下ろしの波は避けられないものとなり、1980年10月21日、長嶋さんは、電撃的に監督を解任されたのでした。(表向きは辞任)

(この突然の解任は、「昭和55年10・21事件」と言われており、怒った長嶋さんのファンが読売新聞の不買運動を起こすなど、野球界のみならず、社会的に大きな影響を与えています)

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川上哲治の名前を口にするのも嫌い川上がOB会会長になった後はOB会を欠席していた

こうして、川上さんとその一派によって批判され続けた挙げ句、監督を解任された長嶋さんは、川上さんへの悪感情が決定的なものになったと言われており、

普段は人の悪口を言わない長嶋さんが、監督を解任された後、「黒幕は野沢のオヤジだ」と吐き捨てるように言ったといいます。

(川上さんが世田谷区野沢に住んでいることからそう言ったのですが、川上さんの名前を口にするのも嫌だったと言われています。また、長嶋さんは、川上さんがOB会会長になった後はOB会への欠席を続けており、1990年、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受け、しぶしぶ出席。この時に川上さんと「和解」したとされています)

「長嶋茂雄の巨人軍監督再登板はナベツネからの要請だった!」に続く

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