前年まで、優勝(日本一)、2位、優勝、というチームを受け継ぎながら、2年間優勝出来ず、ファンや評論家から監督としての資質を疑問視する声があがっていた、王貞治(おう さだはる)さんですが、そんな中迎えた1985年秋のドラフト会議では、PL学園のエース・桑田真澄さんを1位で指名し、獲得することに成功します。

「王貞治は巨人監督時代55本塁打に迫るバースに4四球して非難されていた!」からの続き

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ジレンマを抱えていた

巨人の監督に就任して、2年間、結果を残せない中、王さんは、1つのジレンマを抱えるようになっていたそうです。

それは、王さんは、選手に投打と守りいずれも最高の技術を求め、選手に応じたアドバイスをしていたそうですが、選手はというと、(868本塁打を記録した)王さんだから出来ることと、自分のレベルのこととして捉えていないことに気づいたというのです。

それからというのも、王さんは、

頭を動かさないようにして、球をよくみて打ちなさい

と、いった、ごく基本的なことしか言わなくなったのだそうです。

ドラフト1位指名はもともと清原和博の予定だった

そんな中迎えた1985年秋のドラフト会議では、王さんら巨人の戦略は、この年、甲子園を沸かせ、注目を浴びていた、PL学園の、桑田真澄さん、清原和博さんのKKコンビのうち、早くから巨人入りを熱望していた清原さん指名の方向で話が進んでいたそうですが・・・

(桑田さんは、事前に「早稲田大学へ進学する」と表明していたため、桑田さんを指名するつもりはなかったのだそうです)

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ドラフト1位指名を直前で桑田真澄に変更した理由とは?

それが、ドラフト会議直前になって、「1位指名なら桑田が取れるかもしれない」という情報が入ってきたことから、取れる可能性があるなら話は別だと、正力亨オーナーを交えた編成会議で「桑田で行く」と決まり、桑田さんを1位指名したそうで、

王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、その時のことを、

(桑田さん)本人は困惑し、六球団のクジの結果西武に指名された清原は悔し泣き。学校も監督さんも巨人の〝強行指名〟に拒否反応を示し、監督である私に対する風当たりも強かった。

あの時、清原を指名した方が巨人のためになったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。これは誰にもわからない。私としては、当時「チームの状況を考えれば補強ポイントは投手」とコメントしたように、ベストと思う選択に従ったのだった。

と、綴っています。

(この頃の巨人は、3年目の斎藤雅樹投手が12勝を挙げるも、西本聖投手、江川卓投手の2本柱に陰りが見え始めており、投手陣の整備が急務でした)

「王貞治は巨人監督時代ドラ1で桑田真澄を獲得し大バッシングされていた!」に続く

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