1987年、監督就任4年目にして、ついに初のリーグ優勝を果たすも、翌1988年には、試合中、看板打者として活躍していた吉村禎章選手が栄村忠広選手と激突して大ケガを負って長期離脱となるほか、中心選手の故障が相次ぎ、優勝を逃すと、王貞治(おう さだはる)さんは、ついに、監督を解任されてしまいます。

「王貞治は巨人監督就任4年目で初のリーグ優勝を果たすも・・・」からの続き

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1988年は吉村禎章、クロマティ、山倉和博と離脱者多数で優勝を逃していた

1987年、監督就任4年目にして、ついに初のリーグ優勝を果たした王さんですが、この年、エースだった江川卓さんが余力を残して引退していたことから、翌1988年は、投手力が大幅ダウンしたほか、

この先10年は中軸を任せられるはずだったホープ・吉村禎章選手が大けがで長期離脱、明るいキャラクターでムードメーカーとしても頼りになっていたウォーレン・クロマティ選手が死球で骨折し離脱、前年MVPに輝いた山倉和博捕手が右大腿二頭筋の肉離れや背筋痛と、故障車が相次ぎ、優勝した中日に12ゲーム差をつけられ2位に終わります。

(クロマティ選手の代わりに昇格した台湾出身の呂明賜選手は、ホームランで鮮烈なデビューを果たしたものの、最終的には、打率2割5分5厘、16本塁打、40打点と物足りない成績でした)

巨人の監督を解任される

すると、V逸はすでに決まっていたものの、まだ3試合を残していた、同年9月29日、王さんは、オーナーの正力亨さんに呼ばれ、責任を問われる形で、

来年は指揮を執らなくていい

と、言われ、巨人の監督を解任されたのでした。(表向きは辞任)

ちなみに、王さんとしては、やっと思うようなチームが出来て、いよいよ日本一という宿願も果たせると思っていたタイミングだったそうですが、「この世界、球団から契約しないと言われればそれまでだ」と、あっさり「分かりました」と言ったそうで、30年間着続けた巨人のユニフォームを脱ぐことになったのだそうです。

(世間には、長嶋茂雄さんの退陣の時と重ね、ONという功労者に巨人は冷たすぎるのではないか、との同情の声もあったそうです) 

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最善を尽くした自負はあるものの涙が止まらなかった

そんな王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、この時のことを、

十月四日、横浜スタジアムでの大洋戦が巨人で最後の試合になった。初回、相手先発、斉藤明夫から駒田徳広と呂の適時打で3点を挙げた。若手の先発・松原靖から鹿取へとつないで勝った。苦労をともにした鹿取が最後のウイニングボールを渡してくれた。

昭和五十九年の監督就任以来、日本一はついに果たせなかったが、「自分としては今年も130試合、最善を尽くしたという自負はある」と話した。 最後のミーティングで選手たちに「勝負は絶対に勝たなければダメだ。来年は藤田(元司)監督を必ず胴上げしてほしい」と伝えた。巨人は強くあらねばならない。それが言いたいことのすべてだった。

川崎市生田のすし屋で裏方さんたちが二十人くらいで、私と国松彰コーチの送別会をしてくれた。このときはいろいろな感情がこみあげ、みんながお金を出し合って手配してくれた帰りのハイヤーの中で、涙が止まらなかった。

と、綴っています。

「王貞治は根本陸夫に福岡ダイエーホークス監督を打診されていた!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

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