2006年に胃の全摘出手術を受けると、術後の回復は順調だったという、王貞治(おう さだはる)さんですが、2008年には、福岡ソフトバンクホークスの監督を退任し、同球団の取締役最高顧問に就任すると、2009年からは、球団取締会長となっています。今回は、そんな王さんの監督退任理由と監督時代の成績をご紹介します。

「王貞治は胃ガンの全摘出手術を受けていた!」からの続き

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2007年には2008年限りでの監督退任を示唆していた

王さんは、2006年7月(67歳)、「胃ガン」が見つかり、胃の全摘出手術を受けると、幸い、手術は成功し、術後の回復も順調で、翌2007年には、春の宮崎キャンプからソフトバンクホークスの監督に復帰しているのですが、

このシーズンは3位で、クライマックスシリーズでも第1ステージで敗退してしまい、

王さんは、選手たちに、

来季はラストシーズンのつもりでいる

と、成績次第では2008年シーズン限りの監督退任を示唆したそうです。

ソフトバンクの監督を退任しソフトバンク球団取締役最高顧問⇒球団取締役会長に就任

そんな王さんですが、2008年のシーズンでは、7月26日に史上8人目となる監督通算1300勝を達成するも、同年、オリンピックに強行出場した川崎宗則選手が疲労骨折するなど、選手の故障が相次ぎ、シーズン終盤の9月、10月には、27戦で21敗と惨敗。

結果、チームは64勝77敗3分で12年ぶりに最下位となってしまい、王さんは、同年9月23日、シーズン終了と同時に、ソフトバンクの監督を退任したのでした。

(その後、同年10月8日にはソフトバンク球団取締役最高顧問に就任し、翌2009年1月1日には球団取締役会長に昇任)

ソフトバンク監督退任は胃ガンによる体力気力の衰えが原因

ちなみに、王さんは、9月23日、日本ハム24回戦(福岡ヤフードーム)終了後、福岡市内のホテルで記者会見を開くと、

選手を辞めるときも葛藤がありました。自分の中で辞めるときではないか、まだやれるという気持ちの中で引退を表明したのが40歳のときでした。今回、すごく似た心境でした。

気持ちの激しい揺れがありましたが、正式に表明できたことにはホッとしたという気持ちもあります。これからは前に突き進むだけ、ですから。

元気なときはいつまでも(監督業を)できると体力に自信を持っていましたが、(2006年に)手術をしてからは体重も減りましたし、足も自分のものではないような感覚を持ったときもありました。

“監督”とは現場で最前線に立って先頭を切っていかないといけないものだと思っています。試合を重ねていくうちに(現在の自分では)指揮に影響するという想いが強くなりました

と、語っているのですが、

著書「もっと遠くへ 私の履歴書 (日本経済新聞出版) 」でも、

平成19年に現場復帰し、20年まで指揮を執った。おかげさまで術後は順調だが、気力の点では以前と同じというわけにはいかなかった。

色紙にはいつも旧字で「氣力」と書いている私だが、最後の二年は定期の検査などもあり、100パーセントの精力を現場に傾けられたとは言いがたい。

ダイエーで再びユニホームに袖を通して以来、ギラギラする勝負の日々を過ごしてきた私は、グラウンドで倒れたら本望と思っていた。その思いを引きずってしまったわけで、本当は手術を受けた年限りで辞めるべきだった。選手たちには申し訳なかった。

と、綴っており、

監督退任は、胃ガンを患ったことによる体力と気力の衰えが原因だったようです。

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監督時代の成績(読売ジャイアンツ、ダイエー(ソフトバンク)ホークス、WBC)

それでは、ここで、王さんの監督時代の成績をご紹介しましょう。

王さんは、1981~1983年には読売ジャイアンツの助監督、1984~1988年には読売ジャイアンツの監督、1994~2008年にはダイエー(ソフトバンク)の監督を務め、19年間の監督生活で、1315勝、リーグ優勝4回、日本一2回と輝かしい成績を残しています。

また、2006年には、「第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の日本監督として、見事、優勝(初代世界王者)を果たしています。

「王貞治の前妻との馴れ初めは?」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書 (日本経済新聞出版)

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