根本陸夫監督に惹かれて、西武ライオンズへのトレードに同意した、田渕幸一(たぶち こういち)さんは、開幕から4番を任されるも、打てない、守れないという日々が続き、ついに、シーズン中にもかかわらず、下半身を鍛えるためランニングを始めると、根本監督がアメリカンノックに付き合ってくれ、打棒を取り戻すことが出来たといいます。
「田淵幸一は西武・堤義明オーナーの発想や理念に驚いていた!」からの続き
西武ライオンズ初年度の球団職員は寄せ集めの素人集団だった
1978年のオフ、阪神球団に深夜に呼び出しを食らって西武へのトレードを通告され、一時は引退も考えるも、西武ライオンズの根本陸夫監督に惹かれ、西武へ入団した田淵さんですが、
西武は、この年、クラウンライターライオンズを買い取ったばかりで、球団職員は、国土計画、西武鉄道、西武建設などグループ各社から集められた寄せ集め集団で、球団運営の経験がなかったことから、田淵さんは、最初は戸惑いの連続だったといいます。
(ちなみに、西武ライオンズとしての初年度の1979年、伊豆の下田で行われた1次キャンプは、報道陣に先に食事を振る舞い、選手にはろくなものが残っていなかったほか、(パイレーツと同じキャンプ地の)アメリカ・フロリダ州ブラデントンで行われた2次キャンプも、田淵さんたち選手に与えられた球場は、「ガラガラヘビに注意!」と立て札のある、ひどい球場だったそうです)
西武初年度は開幕戦から4番を任されるも前期はパッとしなかった
そんな中、田淵さんは、1979年4月7日の開幕戦(日生球場での近鉄戦)から、4番を任されたそうですが・・・
なんと、チーム(西武)は、引き分けを2つ挟んで開幕12連敗という最悪のスタートで、前期は最下位に終わり、
田淵さんも、打率2割4分6厘、ホームラン14本、36打点と、パッとしなかったのでした。
(守備も、「捕手」「一塁」「指名打者」と安定しなかったそうです)
下半身を鍛えるためランニングをしていると根本監督が来てアメリカンノックをしてくれた
そんな田淵さんは、たまらず、シーズン真っ只中の、8月14日の阪急3回戦から、下半身を鍛えるために、誰もいない第2球場の外野を黙々と走り始めたそうですが、
ある日のこと、根本監督がノックバットを持ってやって来て、
ブチ、一人で走るのは苦しいやろ。手伝ってやるよ
と、右翼へ左翼へと打球を飛ばす、アメリカンノックをしてくれたそうで、必死で打球を追ったのだそうです。
(根本監督は、遠征以外は毎日やってきて、アメリカンノックをしてくれたのだそうです)
特訓の甲斐あって阪急8回戦では2打席連続ホームラン
そして、9月2日、富山での阪急8回戦で「4番DH」として戦列に復帰した田淵さんは、1回1死一、二塁で三浦投手からバックスクリーン直撃の17号3ランホームラン、3回無死一塁でも、三浦投手から左中間へ18号2ランホームランを放ったそうで、
最終的には、打率2割6分2厘、27本塁打、69打点と、まずまずの成績とするのですが・・・
チーム(西武)は、後期も最下位に終わったのだそうです。
初年度の西武は最下位も根本監督は自分の責任だと言って選手を責めなかった
ただ、根本監督は、選手たちに、
お前ら、なにも責任ないんだぞ。負けたのは監督のオレが無能だったからだ。責任とらないかん時はオレがとる。だから心はもう来年の方に向けてくれ
と、言ったそうで、
田淵さんは、この言葉を聞き、
この人を来年こそ男にしてやろう
と、思い、また、そう思ったのは自分だけじゃないはず、とも思ったのだそうです。
根本監督は初めて「この人のためなら」と思える人だった
ちなみに、この後、根本監督は、1981年まで西武の監督を務めるも、ついに、優勝することはできなかったのですが、
田淵さんは、根本監督のことを、
初めてこの人のためなら・・・と思った
根本さんが西武の監督でなければ、オレはあのとき野球を辞めていた。根本さんに田淵幸一という野球人を作り替えてもらったと思う
と、語っています。
(根本監督は、監督退任後は、兼務していた管理部長(実質GM(ゼネラルマネジャー))専任となっています)
「田淵幸一は広岡達朗が西武監督就任当初はついていけないと思っていた!」に続く