根本陸夫監督がアメリカンノックに付き合ってくれたこともあり、西武ライオンズ1年目の終盤頃から本来の打棒を取り戻した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、西武ライオンズ2年目の1980年には、5年ぶりとなる自己最多タイの43本塁打を記録するのですが、1981年には、右膝を痛めて戦線離脱を余儀なくされると、追い打ちをかけるように、この年限りで、慕っていた根本監督が退陣して、広岡達朗監督となり、ついていけないと思うようになったといいます。
「田淵幸一にとって根本陸夫は初めて「この人の為なら」と思える人だった!」からの続き
自己最多タイの43本塁打を記録し完全復活を遂げるも右膝半月板挫傷で1軍登録を抹消される
下半身を鍛えるため、1979年のシーズン途中からランニングを始めた田淵さんは、根本陸夫監督がアメリカンノックに付き合ってくれたこともあり、
西武移籍2年目の1980年には、5年ぶりとなる自己最多タイの43本塁打をマークし、打点も97と、「西武の主砲」として、完全復活を遂げるのですが・・・
(西武球団史上初の40本塁打でもあったそうです)
翌1981年5月23日には、秋田・八橋球場での近鉄戦で、6回、三塁へと滑り込んだ際、オープン戦で痛めていた右膝を強打し、右ひざ半月板挫傷と診断されたそうで、6月1日、1軍登録を抹消されます。
引退を考えるも婚約者が妊娠中で辞めるわけにはいかないと思い直していた
そのため、田淵さんは、「引退」の2文字が頭をかすめたそうですが・・・
田淵さんは、この2日前に婚約を発表したばかりで、しかも、婚約者の有加さんは妊娠中で、だんだん大きくなっていくお腹に手を当て、赤ちゃんが動いているのを感じるうちに、辞めるわけにはいかない、と思うようになったのだそうです。
(この年は、プロ入り以来、最低の15本塁打に終わっています)
食生活まで管理する広岡達朗監督に当初ついていけないと思っていた
そんな中、追い打ちをかけるように、シーズンが終わった10月29日、慕っていた根本監督が退陣し、広岡達朗新監督の就任が発表されると・・・
(広岡監督は、根本監督が広島監督時代に「後継者」として育てていたそうです)
広岡監督は、
プロにとってグラウンドがすべて。いいかげんな体調でグラウンドに出てくることは許されない
と、選手の食生活まで管理し、
肉の摂取量を抑え、自然食、玄米食の摂取を強要し、キャンプの楽しみだった食事の時間は極端に短くなり、さらには、禁酒、禁煙、禁マージャンとなったそうで、
田淵さんは、後に、広岡監督について、
オレの野球人生もこれで終わった-と観念したよ。肉はだめ。野菜を食べろ。米を食べるな。そんな広岡野球についていけるわけがない
と、語っています。
(当時、既に広岡監督の「管理野球」は、1976年にヤクルトの監督として日本一になったことで確立されていました)
「田淵幸一は広岡達朗監督に全選手の前で批判されていた!」に続く