1984年は、開幕から好調も、ゴールデンウィーク明け頃から、体が思うように動かなくなり、打球がフェンス際で失速するようになると、オールスターには監督推薦で出場するも、第2戦、9回、投手・東尾修さんに打席が回ったときに代打で出番があると準備をするも、そのまま東尾さんが打席に入ったことで、張り詰めていたものがプツンと音を立てて切れてしまったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、同年、ついに現役を引退します。
「田淵幸一が引退を考え出したのは花粉症がきっかけだった!」からの続き
気持ちを奮い立たせることができなくなっていた
1984年の春のキャンプでは、打撃を極めた気がするほど、調子が良く、4月はリーグトップの27打点を記録するも(打率2割8分6厘、5本塁打)、ゴールデンウィーク明けには、スタンド中段まで行ったと思った打球がフェンス際で失速するようになり、引退を考えるようになったという田淵さんですが、
実は、前年1983年12月には、2人目の男の子が誕生しており、幼い2人の息子のことを思うと、内角球が怖くなっていたほか、前年、巨人を倒して2年連続の日本一を達成したこともあり、もはや、気持ちを奮い立たせることができなくなっていたのだそうです。
現役引退を発表
結局、田淵さんは、1984年9月23日に現役引退を表明すると、9月29日、最終戦の阪急戦(西宮球場)では、4番ファーストでスタメンに起用され、結果は5打席ノーヒットも、最後はプロテクターをしてキャッチャーのポジションにつき、試合終了後、ナインに胴上げされており、
著書「我が道」で、
現役最後の試合となった9月29日の阪急(現・オリックス)戦。西宮球場には阪神の応援団も駆けつけてくれた。私は最後にマスクをかぶり、プロテクターをつけたまま、仲間の手で宙に舞った。16年間の現役生活。悔いはなかった
と、綴っています。
最後戦の阪急(現・オリックス)戦で胴上げされる田淵さん。
自分のプレーする姿を子供に覚えていてほしい思いから、引退は後ろ髪を引かれていた
そんな田淵さんは、後年、
38歳だしね。もう体がついていかない。夏過ぎから体に脱力感があり、とてもファンに見せられるバッティングができないと思った
と、語っているのですが、
妻の有加さんによると、実際、田淵さんは、帰宅後、「あの当たりがもうホームランにならない・・・」と独り言のようにつぶやく日が多くなっていったといいます。
それでも、長男の裕章(ゆうしょう)さんは、この時、まだ2歳だったそうで、「いま、辞めたら息子の記憶に残らない」「自分のプレーする姿を子供に覚えていてほしい」という思いがあったことから、後ろ髪を引かれる思いもあった中、引退したそうですが、
裕章さんが5歳になった時、田淵さんは、この頃、既にテレビやラジオで解説の仕事をしていたそうですが、「お父さんのお仕事はプロ野球選手だよね」と言われ、とても感激したといいます。
引退を表明した日の夜には「夜のヒットスタジオ」に生出演していた
ところで、田淵さんは、現役引退を表明した日の夜には、歌番組「夜のヒットスタジオ」に生出演しているのですが、
広告代理店「電通」の関係者は、田淵さんのことを、
極端な話、滑っても転んでも絵になる方ですから
と、語っており、当時の田淵さんの人気の凄さが伺えます。
(田淵さんのCMのギャラは、1社、年間2千万円とも言われていたそうです)
(左から)井上順さん、田淵さん、芳村真理さん。(タップでyoutube)