1975年に最初の妻・博子さんと結婚するも、6年後の1981年には離婚した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、離婚調停中の1980年12月、知人のパーティーで知り合った、八田有加さんに一目惚れしたそうで、猛アタックの末、再婚したといいます。
「田淵幸一の前妻との離婚理由は?」からの続き
現在の妻・有加との馴れ初めは?
田渕さんは、最初の妻・博子さんとの離婚調停中の1980年12月、知人のパーティーで八田有加さん(当時、「ジャネット八田」名義で女優として活動)と知り合うと、有加さんに一目惚れしたそうで、
田渕さんは、その時のことを、
この人だと体に電気が走った
と、語っています。
一方、有加さんはというと、
マンガの『タブチ君』は知ってましたが、本人のことはまったく・・・。第一印象?マンガよりスマートだなって
と、語っています。
現在の妻・有加の家族は結婚に反対だった
そんな田渕さんは、有加さんに猛アタックしたそうで、1981年1月、前妻の博子さんとの離婚が成立すると、春季キャンプが終わった3月には、有加さんに正式に交際を申し込んだそうで、5月21日には婚約発表し(この時、すでに有加さんは妊娠中だったそうです)、その後、有加さんと再婚しているのですが、
当初、有加さんの家族は田渕さんとの結婚に反対したそうで、特に、お母さんからは、「苦労するよ。おやめ」と言われたそうですが、
有加さんは、
苦労は平気でした。むしろ私がついてあげなければという気持ちだった。どこに惹かれたかって?底抜けに明るくて人のいい幸一さんの性格でしょうか
と、笑いながら語っています。
(田渕さんは、この年(1981年9月)には、当時のプロ野球選手としては晩年とも言える35歳を迎えていて、あとどれだけ現役を続けられるか分からなかったうえ、前妻の博子さんとの離婚でお金を使い果たし、貯金がゼロになっていたそうです)
現在の妻・有加は「ジャネット八田」名義でモデル・女優として活動していた
ちなみに、有加さんは、貿易商を営むポーランド系アメリカ人のお父さんと、日本人のお母さんのもと、アメリカ・バージニア州で誕生すると、3歳の時には日本に帰国し、1972年、高校卒業後は、日本航空の客室乗務員として働き始めたそうですが、勤務してから3ヶ月後、資生堂の専属モデルとしてスカウトされたそうで、「ジャネット八田」の芸名でモデルデビュー。
その後は、「鬼平犯科帳」や「子連れ狼」などの時代劇やテレビドラマ、映画に出演していたそうですが、田淵さんと結婚後は芸能界を引退し、主婦業に専念しています。
(1985年には、一家で「サクラカラー」のCMに出演しています)
「田淵幸一の子供は?長男はアナウンサーの田淵裕章!次男は?娘も?」に続く
田淵さんと有加さん。(サクラカラーのCMより)