中学進学後は、野球部に入部すると、もともと軍人に憧れていたこともあり、厳しい下積みの中でも、心身の鍛錬が上達の道だと信じて疑わず、もくもくと練習に励んだという、中西太(なかにし ふとし)さんは、1年生の時から頭角を現していたそうで、中学3年生になって下積みが終わると、レギュラー(正三塁手)になったそうですが、選抜高校野球には、高校に入学する前にもかかわらず、出場したといいます。

「中西太は幼少期に三角ベースに夢中になり少年時代から強打者だった!」からの続き

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中学1年生の時から頭角を現していた

12歳(小学6年生)の時に野球に夢中になり、中学入学後は野球部に入部して厳しい練習に勤しんだという中西さんは、身のこなしが俊敏で、すぐに頭角を現したそうで、

1948年春、中学3年生になり、ようやく2年間の下積みが終わると、同年秋には正三塁手に起用されたそうですが、中西さんが打撃練習を始めると、打球が速すぎて危険なため、内野手はみな守備位置を離れ、外野に移動するほどだったそうです。

(中西さんは、レギュラーになった際、うれしさのあまり、泣きながらお母さんに報告したそうです)

旧制中学が途中で生徒募集停止になって実質3年間1年生だった

ちなみに、中西さんは、1946年に旧制中学に入学して野球部に入部しているのですが、翌年の1947年には、旧制中学は生徒募集停止となったことから、後輩はおらず、1949年に新制高校に入学するまでの3年間、実質、ずっと1年生をしていたようなものだったそうです。

昭和21年(1946) 旧制中学1年
昭和22年(1947) (併設)新制中学2年
昭和23年(1948) (併設)新制中学3年
昭和24年(1949) 新制高校1年
昭和25年(1950) 新制高校2年
昭和26年(1951) 新制高校3年

(1948年に学校改革があり、「六・三・三制度」が発足したそうです)

高校入学前に(中3で)春の選抜甲子園に出場していた

さておき、1949年春には、中西さんが進学する予定の(新制)高松一高は初めてセンバツ出場を決めたそうですが、中西さんはまだ高校に入学していないにもかかわらず、甲子園に出場することになったそうで、

中西さんたち部員を乗せた別府航路の旅客船は、夕暮れの高松港から、大勢の人たちに見送られて、甲子園に向けて出港したそうですが、

デッキにいた中西さんは、桟橋の片隅から人混みをかき分けながらやって来て、つま先立ちで手を振っているお母さんの姿が目に入り、感極まって泣きそうになったそうで、

中西さんは、この時のことを、

今でも船旅で見送られるのは好きではないんだ。なんだかもの悲しくてね。あこがれの甲子園でプレーできる興奮と感傷的な思いが交錯して泣きそうだった。

当時は食糧難だったから、それぞれが持てるだけ、5、6升の米をかついで船に乗り込んだ。楽しくもあり、つらくもあった。

と、語っています。


甲子園に向けて出港する船で大勢の声援に答える高松一高のナイン。中西さんは左から3番目。

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準々決勝の福岡県立小倉高等学校戦で敗退

こうして迎えた初戦の関西高等学校戦では、中西さんは3番・サードに起用されたそうで、中西さんは、2回に中前2点タイムリーを放ち、チームも9対3で快勝したそうですが、

準々決勝の福岡県立小倉高等学校戦(1947年夏の大会の優勝校)では、4打数無安打に終わり、チームも小倉高のエース・福嶋一雄投手(後の日本野球連盟九州地区連盟副会長)に、わずか3安打に抑え込まれ、0対4と完封負けを喫したのだそうです。

ちなみに、福嶋さんは、当時の中西さんについて、

確か試合前日だったと思いますが、四国新聞社が企画した対談がスタンドであったときに初めてお会いした。体も大きくなく、高校生らしい学生という印象でした。打席に立ったときは、それなりに風格があった。

リストの柔らかいスイングで、レフト前に1本打たれた気がしたんですが(無安打に抑えていることに)それだけ打たれた印象があるんでしょうね。対戦したなかでは素晴らしい打者でした。その後のプロでの活躍を見るたびに、なるほどなと思ってました。

と、語っています。

(福嶋投手は、1948年夏、史上2人目の5試合連続完封で2連覇を達成しています)

「中西太は高校1年生にして甲子園で名前を轟かせていた!」に続く

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