1964年には、エース稲尾和久投手の長期離脱や若林忠志ヘッドコーチの退団などで、西鉄ライオンズを5位に転落させてしまった、中西太(なかにし ふとし)さんは、その後、1965年は3位、1966年と1967年は2年連続2位となるも、1968年と1969年は2年連続5位となってしまい、ついに、兼任監督辞任と同時に現役引退を決意したといいます。
「中西太は西鉄監督時代に若林忠志ヘッドコーチ退団で批判されるも・・・」からの続き
2年連続2位も・・・
1962年に西鉄ライオンズの選手兼任監督に就任すると、翌1963年にはリーグ優勝するも、1964年には、5位に転落してしまった中西さんですが、
1965年は、ルーキーの池永正明投手が20勝を挙げる(新人王)ほか、長期離脱していたエース稲尾和久投手の復活もあり、Aクラス(3位)に返り咲くと、
1966年には、稲尾投手がリリーフに転向して最優秀防御率を獲得する活躍もあり、2位に浮上。
(中西さん自身も、このシーズンは代打本塁打を5本記録するなど選手としても活躍しています)
そして、1967年には、高倉照幸外野手との交換トレードで移籍してきた宮寺勝利選手を正捕手に据えると、池永投手が最多勝を獲得する活躍などで、2年連続2位となったのですが・・・
(それまで正捕手だった和田博実選手はレフトにコンバート)
戦力を補強するも2年連続5位に終わる
1968年、「猛打西鉄」の復活を期して、高木喬選手、広野功選手を獲得するなど戦力補強するも、東田正義選手や竹之内雅史選手の台頭はあるも、5位に終わると、
1969年も、チーム打率最下位、チーム防御率5位という散々な内容で、2年連続5位となってしまいます。
チームの成績不振の責任を取って現役引退と兼任監督辞任
そこで、中西さんは、1969年、チームの成績不振の責任を取って、3年契約が満了する同年限りで辞任したい旨、楠根宗生オーナーに申し入れたそうで、楠根オーナーからは強く慰留されたそうですが、11月22日には承認され、中西さんの退団と現役引退が正式に決定したのだそうです。
ちなみに、1969年のシーズン中には、西鉄球団が自軍の選手の八百長行為を疑い、極秘調査を行うと、永易将之投手が、暴力団関係者に依頼されてわざと試合に負けていた(八百長)疑いがあると、シーズン終了後に永易投手を解雇しており(「黒い霧事件」)、中西さんの辞任も、少なからず、この事件の影響を受けたと思われますが、
中西さんは、あくまで、チームの成績不振の責任を取っての辞任とし、
へぼ監督がご迷惑をかけた
と、語っているのみで、多くを語っていません。
「中西太の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く