1980年10月11日、シーズン途中で、成績不振の責任を取り、阪神タイガースの監督を辞することを表明した、中西太(なかにし ふとし)さんですが、10月14日、小津正次郎球団社長との会談後は、一旦、態度を保留していたといいます。
「中西太は阪神監督就任もシーズン終盤には辞任を申し出ていた!」からの続き
辞意は固いと思われていたが・・・
中西さんは、1980年10月14日午前10時、名古屋発大阪行きの新幹線「ひかり3号」の中で、取材をしてきた記者に、
阪神はきっとええチームになる。選手はええんやから、やり方次第でようなる。ワシも一生懸命やったけど、結果はあかなんだ。自分の才能の程度はわかってるつもりや。ワシが身を引くことで強くなれば悔いはない
と、語っていたそうで、辞意は固いと思われていたのですが・・・
話し合いは保留のまま持ち越されていた
同日午後4時過ぎ、甲子園球場で、中西さんと小津正次郎球団社長の会談が始まり、約1時間半後、小津社長が球場内のプレスルーム(100人近い報道陣でごったがえしていたそうです)に姿を見せると、
今、終わりました。今日のところは・・・
16日に改めて話し合うことになりました
と、話し合いは保留のまま、持ち越されたことを明かしたそうです。
会談の中で明かしたという辞意の理由とは?
ちなみに、小津社長によると、
中西さんは、辞意の理由について、
- 健康に自信をなくした
- チーム不振の責任をとりたい
- 東京-大阪の二重生活の負担が大きい
と、話していたそうですが、
これに対し、小津社長は、「(田中隆造)オーナーも留任を望んでおり、辞める理由がない」と慰留に努めたとのことでした。
辞意を保留していた
一方、中西さんはというと、厳しい表情で一言も発せず球場を出ると、中日戦の準備のため、一旦、自宅マンションに戻り、それから新大阪へ向かったそうですが、
新幹線の新大阪駅でプラットホームに立つと、ようやく落ち着いたのか、
僕の真意を述べ、いろんなことをお願いした。自分の能力は知ってるし、甘えているかもしれないが、辞めさせてほしいと伝えたよ
オーナーが残留を希望しているといわれたので、即答は避けたが・・・
16日はどちらかが折れることになるやろな。僕の場合は一旦、口に出した以上は・・・
と、ポツリポツリと、話したそうですが、
最後は尻すぼみとなり、午後7時46分、新大阪発の新幹線で名古屋に向かったのだそうです。
「中西太は阪神監督辞任を田中隆造オーナーの意向で取り消していた!」に続く