阪神では江本孟紀投手と折り合いが悪く、取っ組み合いのケンカもしたことがあったという、中西太(なかにし ふとし)さんは、1981年8月、江本さんが、「ベンチがアホやから、野球がでけへんわ!」と言った責任を取って阪神を退団したことを受け、自身も、全日程終了後の10月14日、阪神の監督を辞任します。今回は、中西さんの辞任会見の様子と監督時代の成績をご紹介します。
「中西太は江本孟紀のピンチの場面でベンチ裏に引っ込んでいた!」からの続き
阪神の監督を辞任
ピンチの場面で、中西さんがベンチ裏に隠れてしまったことに腹を立て、「ベンチがアホやから、野球がでけへんわ!」と言った、阪神のエース・江本孟紀さんが、1981年8月27日に退団すると、
中西さんは、「私の不徳のいたすところ。長たる私の責任だ」とだけ、語っていたのですが、同年9月29日、最後の遠征(名古屋)に向かう新幹線車中で、「スポーツニッポン」の単独取材を受けると、
(球団には)9月初めに私の気持ちを伝えた
球団は来季への準備をしているはずだ
と、答え、
全日程終了後の10月14日、オーナーの田中さんに辞意を伝え、阪神の監督を辞任します。
(この年、阪神タイガースは3位に食い込み、5年ぶりのAクラスになりました)
阪神退団会見では大粒の涙をこぼしていた
ちなみに、ホテル阪神で行われた中西さんの退団会見では、
隣に座る田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)が、
断腸の思いだ。中西君にこれ以上苦労させるのは許されない。一言の弁解もなく任務を全うしてくれた
と、語り、
中西さんは、感極まり、壇上で大粒の涙をこぼしているのですが、
中西さんは、後に、
大したことない監督に選手たちはよくついてきてくれた
と、語っています。
退団会見で感極まり涙を流す中西さん。
(会見後は、ホテル内での納会にも参加し、その後、小林繁さんと「六甲おろし」を歌って、阪神に別れを告げたそうです)
監督時代の成績(西鉄ライオンズ、日本ハムファイターズ、阪神タイガース)
それでは、ここで、中西さんの監督時代の成績をご紹介しましょう。
中西さんは、1962~1969年には西鉄ライオンズの監督(全期間、選手兼任監督)、1974~1975年には日本ハムファイターズの監督、1980~1981年には阪神タイガースの監督と、通算12年間の監督生活で、748勝し、リーグ優勝1回、Aクラス6回、Bクラス6回という成績を残しています。
ちなみに、1984年には、ヤクルトスワローズで、武上四郎監督が休養した後、4月28日から監督代行するも、成績不振(5勝11敗2分)を理由に5月22日に休養。
1994年には、ロッテオリオンズで、八木沢荘六監督が解任された後、8月2日から監督代行を務めています。(21勝22敗2分)
「中西太は仰木彬監督とのタッグで近鉄とオリックスを優勝させていた!」に続く