監督としては、西鉄ライオンズ兼任監督時代に1回リーグ優勝するも、その後、日本ハムファイターズでも阪神タイガースでも優勝できず、そのうえ、選手から反発されていたという、中西太(なかにし ふとし)さんですが、その後、西鉄の後輩である仰木彬監督のもとヘッドコーチを務めると、近鉄バファローズでもオリックスブルーウェーブでもチームを優勝に導いています。
「中西太の監督時代の成績は?阪神監督辞任理由は?」からの続き
西鉄時代の後輩・仰木彬に要請されて近鉄の打撃コーチ~ヘッドコーチに就任
中西さんは、1985年、当時、近鉄のヘッドコーチだった仰木彬さんの要請で、近鉄の打撃コーチに就任すると、その後、1987年に仰木さんが近鉄の監督になり、1989年には中西さんは仰木さんのもとヘッドコーチに就任しているのですが、
実は、仰木さんは、中西さんの西鉄時代の2つ年下の後輩で、1962年に中西さんが西鉄の兼任監督になった際には、仰木さんはまだ現役選手だったのですが、1967年に現役を引退すると、翌年の1968年からは中西さんのもと西鉄のコーチを務めており、
今回は、仰木さんが監督、中西さんはヘッドコーチと、立場は逆転するのですが、仰木さんは、中西さんをとても頼りにしていたそうで、
中西さんは、仰木さんについて、
わたしは仰木君にとって兄貴分のような存在だった。彼が(西鉄に)入団してきたときはかわいいボンボンの印象を受けた。人なつっこくて、だれからも好かれましたね
と、語っています。
近鉄では仰木彬とタッグを組んでリーグ優勝を果たしていた
こうして、近鉄でタッグを組んだ中西さんと仰木さんは、前年の1987年には最下位だった近鉄を、1988年には、優勝には至らなかったものの、当時黄金期だった西武をあと一歩のところまで追い詰めると、
(最終戦までもつれ込んだこの試合は、「10.19」と呼ばれ、球史に残る名勝負として今なお語り継がれており、仰木さんの、様々な奇策による好采配は、(中西さんにとっても)恩師である三原脩さんの「三原魔術(マジック)」に倣って「仰木魔術(マジック)」と称されています)
1989年には、中西さんが見初め、中日からトレードで獲得したラルフ・ブライアント選手が活躍し、ついに、劇的なリーグ優勝に導いています。
オリックスでも仰木彬とタッグを組み日本一になっていた
ちなみに、その後、中西さんは、巨人の一軍打撃コーチ(1992年)、ロッテのヘッドコーチ(1994年)を経て、1995年には、オリックスのヘッドコーチに就任し、再び、仰木さんとタッグを組むと、
1995年、1996年とリーグ2連覇を達成するほか、1996年の日本シリーズでは、長嶋茂雄監督率いる巨人を4勝1敗で制し、日本一となっています。