東京六大学野球リーグで野球をやりたかったことから、いすゞ自動車を退職して、友人のお父さんに便宜を図ってもらい、野球推薦という形で明治大学に進学したという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、いざ入学すると、野球熱が冷めてしまったそうで、野球部に顔を出さずにいると、ついに呼び出しされ、1日1000球もの投球練習をさせられたといいます。

「杉下茂は中日のスカウトを断って明治大学に進学していた!」からの続き

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明治大学旧制専門部に進学するも野球熱が冷めていた

東京六大学野球リーグで野球をやりたいという希望から、いすゞ自動車を退社し、明治大学旧制専門部に野球推薦で入学した杉下さんですが、(理由は不明ですが)野球がやりたくなくなり、家と大学を往復するだけで、野球部には顔を出さなかったそうです。

すると、ついに、学生課から呼び出され、野球部へ行くように言われたそうで、仕方なく野球部に行くと、春のリーグ戦が1回戦制で行われる予定となっていたそうですが、終戦直後だったことから選手が揃っておらず、特に投手が不足していたため、経験がある杉下さんが投手に起用されたのだそうです。

(秋は現在と同じ2戦先勝方式で行われることになっていたそうです)

1日1000球もの投球練習をさせられていた

ただ、杉下さんは、投手をしたくなかったそうで、帝京商業時代に右肩を痛めた旨、八十川胖(やそがわ ゆたか)監督に告げたそうですが、「上から投げると痛いのなら、下から投げろ」と言われ、アンダースローで投げることになったそうで、

午前中にアンダースローで300球の投球練習をすると、午後からは打撃投手としてオーバースローで2時間フリー打撃に登板し、

(打撃投手は、5,6分の力でよかったため、いくらでも投げることができたそうです)

それが終わると、また、アンダースローで投球練習、さらにシート打撃に登板と、1日に、なんと1000球近くも投げたのだそうです。

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日本は敗戦後の食糧難で日に日に痩せていった

ちなみに、敗戦後の日本は、とにかく食糧難だったそうで、合宿所の朝食は主に雑炊だったそうですが、重湯に毛が生えた程度のもので、お箸を使うまでもなく、お茶碗を両手で持ち上げ、一口すすって「ごちそうさま」で、

お昼も、フライパンで小麦粉を焼いただけのクレープの皮のようなもの(塩味だったそうです)、そして、夜は、肉も野菜も入っていない、塩をふった汁の中に小麦粉をこねて小指の半分くらいの大きさにちぎったものが4つ入っているだけのすいとん汁だったそうで、

(二軍はもっとひどく、朝昼晩全て、お茶碗の六、七分目くらいまでグリーンピースが盛られていただけだったそうです)

体ができ上がる年頃にもかかわらず、日に日に痩せていったそうです。

(リーグ戦の開幕前夜には、何かのカツが出たそうですが、箸でつまんで電灯をかざすと、明かりが透けて見えるほど薄かったそうです。ただ、実家が東京・神田の杉下さんは、まだ恵まれていた方で、練習を抜け出して帰ると、お母さんが何か作って食べさせてくれたそうですが、地方から出てきた学生は、布団と食料を交換して飢えをしのいでいたそうです)

「杉下茂は試行錯誤の末にフォークボールを会得していた!」に続く

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